歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

なぜ北魏は「魏」なのか。

 

●なぜ北魏は「魏」なのか。

 

禅譲論(易姓革命容認)の対局に

位置するのが、

漢王朝永続論。

この感覚に最も近くて我々日本人が

ダイレクトに実感できる概念、

それは本邦の万世一系である。

 

王朝交代はありえないとする考え方である。

 

東晋は、

自身を漢の後継者に位置付け、

それにより禅譲、易姓革命を否定する。

 

東晋が 漢から受けている以上、

ロジックとしては苦しいが、

それは、曹魏が横暴(つまり禅譲と言う名の簒奪)

なことをしたためであって、自分たちは

漢王朝永続論を支持しているよ、

という立場に立つ。

 

これに対抗するため、

北魏拓跋珪は魏を受け継ぐことにした。

 

結論としては、

曹操・曹丕が建てた魏(曹魏)と、

拓跋珪が建国した魏(北魏)は

実はつながっているのである。

 

これを証明するためには、

曹操・曹丕の魏と

北魏を

分けて説明しなくてはならない。

 

 

●曹魏の位置づけ。

 

 

曹操・曹丕が創った魏。曹魏とも言われるが、

この王朝は歴史上初めて禅譲をして、

皇帝の代を重ねた。

 

この禅譲劇をどう捉えるか。

この曹魏の捉え方が、王朝ごとに変わる。

 

王莽の新は史観によっては存在を認められない。

だが、曹魏は存在自体は認められる。

 

その歴史的位置づけ、解釈の問題である。

 

曹操・曹丕が企画した禅譲というのは、

実力主義的である。

 

北魏を建国した拓跋珪。

 

曹操・曹丕の禅譲は当時認められない考え方が主流だった。

 

しかし拓跋珪が鮮卑拓跋氏勢力を復活させたとき、

代であったが、3カ月後に魏に変更した。

 

それは、

曹操・曹丕の魏を受け継ぐ形での「魏」である。

 

なぜ「魏」だったのか。

 

●拓跋氏が名乗っていた「代」の意義。

 

代という国号は、

西晋の最後の皇帝愍帝からもらったものであった。

これは異民族勢力として初めて、

一文字国号を名乗れたという快挙であった。

だが時代は下り、

拓跋珪の時代では、

既に時代遅れといえた。

 

西晋は滅亡し、

その残党の東晋が江南で復興していたとはいえ、

同じ王朝とは言い難い。

 

既に西晋・東晋勢力が華北からいなくなってから、

70年あまり。

 

拓跋珪自身としても、

祖先の歴史こそ知っていたと思うが、

自分自身に何の関係もない。

 

当時は、

383年に苻堅が淝水の戦いに敗れて、

漢人とそれぞれの異民族が分かれて、

争い合う時期。

 

鮮卑慕容部の後燕、羌族姚氏の後秦などが立ち上がりつつある。

 

その中で、代という国号は弱かった。

代の由来は中華の隅っこで元々異民族の地。

後燕、後秦と張り合うには弱い。

 

それに鮮卑拓跋氏は、

376年に苻堅に滅ぼされたとはいえ、

それまでは、異民族の中でも強い勢力であった。

 

西晋の時代においては、

事実上匈奴の後継者としての扱いを受けたぐらいなのに、

ほかの異民族の格下というわけにはいかない。

 

そこで、

拓跋珪が考えた結果が「魏」という国号である。

 

●血統上のつながりがなくても漢を名乗る匈奴の劉淵

 

北魏が魏という国号である理由。

 

それは匈奴が漢を名乗ったためである。

 

匈奴は八王の乱の最中、

西晋から独立し、漢を名乗った。

 

それは、匈奴が前漢の劉邦と戦い、

その講和条約のおいて、

兄弟の契りを交わしたことによる。

(兄が匈奴、弟が前漢)

 

その由来があるからこそ、

後漢に降った匈奴の単于は劉氏を名乗った。

 

それをさらに引用して、

劉淵は漢を名乗る。

匈奴でもいいのに、

長らく漢地に留まっていた劉淵は漢化していた。

 

自立する際に

自分たちを表現する言葉が「漢」としか思いつかなかった。

 

 匈奴出身の劉淵が漢を継ぐ。

西晋への対抗上の概念であった。

 

劉淵が宗廟(先祖を祀る)に祀ったのは下記の8人である。

 

【三祖】
太祖高皇帝劉邦
世祖光武帝劉秀
烈祖昭烈帝劉備
【五宗】
太宗文帝劉恒
世宗武帝劉徹
中宗宣帝劉詢
顕宗明帝劉荘
粛宗章帝劉炟

 

 匈奴出身なのに、冒頓単于を祀るのではないのである。

血縁でもないのに、漢の皇帝を祀るのである。

 

王朝を継承するのに、

血統の根拠が必要がなくなった瞬間であった。

 

 ●劉淵は西晋否定のために漢民族の「漢」を継ぐ。

 

義理の兄弟だからという理由で

漢を名乗った劉淵。

血統は関係がなく昔の王朝を継げる。

 

劉淵が漢を名乗った真意は、

西晋への対抗からであった。

 

すなわち、

西晋は魏から禅譲を受けている。

そもそも魏の禅譲は簒奪だ。

簒奪というのは不適切な行為なので

認められない。

 

だから、魏と西晋を否定する。

 

そもそも魏が簒奪した漢王朝こそ、

永遠に続くべきだった。

 

事実、これは後漢末の一つの思想であったし、

劉備、劉禅の蜀漢もこの考え方に則っているものであった。

 

西晋の蜀漢討伐により、

この思想は途絶えたが、

これを

劉淵が復活させたのである。

 

●拓跋珪が魏を選んだ理由。

 

さて、北魏の拓跋珪の話に戻る。

 

匈奴は後漢の中期に事実上滅びて、

その後に北方で勃興したのが、

鮮卑であった。

 

鮮卑にも色々な部族があるが、

その中で西晋と密接に結びついたのが

拓跋珪出身の鮮卑拓跋氏であった。

 

これは事実上匈奴の後継者である。

 

それが紆余曲折を経て、

386年に代として復興する。

 

しかし上記のように代という国号は役不足。

 

それで考えた。

 

劉淵が漢を名乗ったように、

拓跋珪が名乗れる国号はないのか。

 

血統がつながってなくてもいい。

劉淵は血統なしに漢を継承したからである。

 

鮮卑拓跋氏が中華王朝との接点があり、

東晋はもちろん、後燕・後秦に負けないぐらい

格の高い国号。

 

それが曹操・曹丕の建てた「魏」であった。

 

そもそも鮮卑拓跋氏という存在が、

書物上で認識されたのは

曹魏の時代である。

 

258年に鮮卑拓跋氏が朝貢をしたことに始まる。

 

朝貢というのは、

貢物を持って挨拶に出かけ、

朝議に出席して、儀礼に参加することである。

 

異民族の鮮卑拓跋氏が中華のやり方に従う。

 

その代わり、お土産をたくさん持たせてくれる、というわけである。

 

鮮卑拓跋氏が世に出たのは魏の時代である。

 

匈奴のように、兄弟の契りをしたわけではないが、

これをきっかけとして、魏の天命を継ぐ、と拡大解釈したわけである。

 

●東晋へのイデオロギー対抗上の「魏」

 

曹魏を継ぐというのはとてもよかった。

 

まず、

東晋は、魏からの禅譲という由来を事実上捨てていた。

 

漢を継いで晋は永続的に続くという概念であった。

 

魏は正当な理由で漢から禅譲を受けたとすれば、

例えば王莽などは劉邦の霊魂から禅譲を受けたことになっているので、

何とでも言える。

 

魏の由来を捨てた東晋に、真っ向対抗できるのは魏である。

 

また、

戦国時代における格としても、

後燕の燕、後秦の秦に負けていない。

 

むしろ、魏は燕よりも格は上であろう。

 

魏は中華の先進地域を支配しており、

拓跋珪が今後中華エリアに進出するには、

とても都合が良い国号である。

 

拓跋珪は、

曹操・曹丕の魏とは、

ほぼ全く関係がない。

 

ただ一つだけあるのは、

鮮卑拓跋氏が初めて朝貢をした先が魏だったというだけである。

 

それが、

時代背景、皇帝や王朝に関する考え方により、

異民族鮮卑拓跋氏の拓跋珪が魏を名乗るという

事態にまで至るのである。