歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

曹操の「武帝」という諡号は不孝か 。

曹丕が父曹操に対して、
曹丕自身が文帝に対して、
曹操が武帝になっているということは
不孝だという話がある。

諡号の中で「文」が最良という考え方だが、
私はこの時代には既に「武」が
最良であったと主張する。

この曹丕の不孝というのは、
周の文王と武王の関係になぞらえての
批判だ。
周の文王は、
殷末期殷王を凌駕する名声を得ていたものの、
叛乱(周の主張としては放伐という)を起こさず、
死去した。

しかし、その子の武王は兵を挙げ、牧野の戦いで
殷の紂王を破り、
天下を手中に収めた。

天下を十州を治め(後漢末期には一三州あった)
曹操は皇帝にならず、輔弼か禅譲かを
曹丕に委ねた。
曹操は文王になりたかったのであり、
「文」を諡号とすべきだったのに、
「武」とし、曹丕自身が「文」となったという話だ。

歴史の難しさはどうしても現代から俯瞰して
どの時代も見てしまうことだ。
全ての結果を知っているので、
全てを見通せる「神」のような立場で見れてしまうので、
何か錯覚のようなものが起きる。
より歴史を深く知ろうとする場合には、
知りたい時代を現代として、前後を見定める必要がある。

上記の後漢末期、
それ以前に「武」という諡号となった有名な君主は、
周の武王ともう一人いる。
前漢武帝だ。

この漢の武帝の
(前156年生ー前87年没。在位前141年ー前87年。
在位年数は54年に渡る)の時代に
「史記」が司馬遷により成立したことに
注目したい。

史記は、武帝に至るまでの
歴史を綴っている。
その内容は、漢の武帝になぞらえた黄帝の事績に始まり、
いかにして漢の武帝が正当な君主かを
主張するものだ。

なぜ漢の武帝なのか。
それ以前の例えば高祖劉邦ではないのか。
そう、劉邦ではないというところがポイントだ。

理由が2つある。
1つは、国内をまとめきれていなかったということだ。
これは武帝の父景帝の時代、呉楚七国の乱(前154年)
を経て、漢の皇帝権は当時のチャイナ領域を覆った。
そして2つ目の理由が大きい。
漢の武帝は、匈奴をはじめとした異民族に打ち勝ったという
ことだ。
高祖劉邦は、前202年白頭山の戦いで(場所は今の大同)
匈奴の冒頓単于に敗れ、
匈奴に屈服している。

史書などではあまり明確にされていないが、
屈服したという事柄が3つある。

①匈奴単于に漢の皇室に連なる女子を娶らせることになるが、
この経緯ではこれは人質だ。
②漢は匈奴に貢納した。のちの北宋が契丹に平和を
銭で買ったのと実は同じだったのだ。北宋が初めてなのではない。
北宋が契丹(遼)に武力で勝てないから貢納して
平和を買ったのはよく知られている。
③匈奴を兄と呼び、漢は弟とした。
これも北宋と契丹(遼)が結んだ
澶淵の盟(1004年)と同じだ。

この因縁は漢の武帝はならず、
チャイナの歴史に非常に大きな影響を及ぼす。

この屈辱を漢の武帝は晴らした。
匈奴を討伐し、天の下唯一の世界を治める皇帝として、
完全にその力を及ぼしたのだ。

司馬遷の「史記」は、だからこそ漢の武帝を持ち上げる。
というより、そういったストーリーを作った
といった方が正しいであろう。
匈奴討伐を失敗した李陵をかばう発言をして、
宮刑(去勢される)にされた司馬遷としては、
この「史記」という歴史書が公認されるために、
自身の身を守るためには、
このストーリーを取る他なかった。

つまり、
漢の武帝は史上最高の君主であり、
これが史上あるべき姿、つまり「正統」なのだということを
史記は示した。

この「正統」を継ぐこと、
それが「伝統」(正統を伝える)というと、
岡田英弘氏は著書「読む年表 中国の歴史」で
主張している。

正統は子孫が継いだり、
時には禅譲で、その正統を伝えてきた。

「史記」よって、
チャイナにおける「正統」史観が
生まれた。
これは現代に至るまで影響を及ぼす。

チャイナ「正統」史観からすると、
漢の武帝がベンチマークなのではなく、
武帝の時代がつねに続くという意味である。
あるべき姿は漢の武帝で、またその時代で、
時の皇帝は漢の武帝と同じで、その時代と同じ
という考え方である。
変わってはいけないのである。
だから、我々が知るチャイナの歴史で、
例えば周の文王や武王との事績に見習うべきだという話は
あれど、輝かしい実績を残したはずの漢の武帝の
事績にした方が良いという話は出てこない。
今の皇帝、今の時代、イコール漢の武帝、漢の武帝の時代
なのであって、その主張は不敬なのだ。

「武」という諡号を持つものは、
武帝に並ぶという意味だ。
最良の諡号なのである。

曹操は、
統治したエリアも漢の支配エリアとほぼ重なる。
さらに曹操は烏桓征伐をして成功しているし(207年)
匈奴の末裔も傘下に収めている。

曹操は曹丕から最高の諡号を贈られたのだ。