歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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匈奴単于は中華皇帝の「必需品」~皇帝としての正統性の象徴~

 

匈奴の単于を傘下に置くこと、
それは中華皇帝にとって、最大の正統性の証であった。

 

●きっかけは、前200年白登山の戦い

現在の大同(当時は雁門郡平城。代エリアの一部である。)の郊外、

北東が白登山である。ここは漠北から異民族が中華に侵入する最短ルートであった。

 

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引用元: 

地図で訪ねる歴史の舞台 世界 (旅に出たくなる地図シリーズ4)

 

それは前漢高祖劉邦が白登山で冒頓単于に惨敗、
包囲され絶対絶命の窮地に陥ってからである。

中華を統一した漢民族の皇帝高祖劉邦を破った匈奴は、
漢民族にとってどうしても雪辱を晴らしたい相手であった。

異民族として蔑んでいた相手に屈服させられたのである。

 

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この事件はあまり正史ではピックアップされない。

しかし非常に重要なことだ。
北宋と契丹の間で結ばれた澶淵の盟と同様の屈辱的な講和条約を、
ここで漢は匈奴と結んでいる。

 

北宋史上有名な中華の屈辱的な条約は、中華史上初めてのことではなかったのだ。

これは事実であり、本来中国史上で非常に重要な史実なのに、
ピックアップされないことこそがより一層この内容の屈辱感を
我々部外者に感じさせる。

匈奴に対し漢が貢納するのである。
中華皇帝の専権である交易権を強引に認めさせられる、
この二つは、漢以前の歴史としてもあってはならないことであった。

漢以後の歴史からもわかる。
朝貢貿易というが、これは中華皇帝が頂点に立つ秩序で、
その恩恵を朝貢に来た他国に与えるというものだ。
それを匈奴の下風に立つのである。

さらに漢がその存在を認めていない前王朝の秦は匈奴を屈服させたのに、
これである。

これは非常にまずい。

高祖劉邦の時点では、
中華一統も中途半端なものだったが、
対匈奴関係に関しても、このように漢人にとっては
未完の関係であった。

漢王朝はこの白登山の雪辱を晴らすべく動く。

 

●前漢武帝、中華の雪辱を晴らして、秦の始皇帝とイコールになる。

 

国内をまとめきり、
国力を充実させ切って、訪れたのが
前漢武帝の時代。

いよいよ、雪辱を晴らすべく動く。

 

相当の資本を投下して、
匈奴を屈服させた。相当に強引であったが、それは成功した。

これで前漢武帝はようやく、
中華を一統したことになった。中華が認識していた世界を一つにまとめきったのだ。

 

これでようやく中華を一統し、匈奴のみならず、南方の百越を打ち倒し、
中華の王者となった秦の始皇帝に並び立った。

 

ここに中華の王者、皇帝という存在は一体何者なのかという命題を
武帝が答えたことになる。

秦の始皇帝に始まる、中華一統を成し遂げる皇帝という存在。

対外関係でその象徴となるのが、
匈奴の屈服であった。

これ以後、中華王朝はとにかく異民族にこだわる。

それは中華王朝の頂点、皇帝の正統性に関わるからである。

 

後漢、曹魏、西晋。
自身の正統性主張の際、匈奴は必要不可欠であった。

後漢期においては、匈奴は従属、離反を繰り返すが、
後漢末期においては匈奴は既に中華王朝に従順になっていた。

黄巾の乱の混乱に影響を受けて、
一度は匈奴は離反するも、
曹操の手により、再度匈奴は中華王朝のものとなった。

 

そこから約100年匈奴は中華王朝のもので、
皇帝の正統性を主張するために存在した。

 

しかし、その匈奴の象徴、劉淵を
司馬穎が解放してしまう。
并州の西で自立。304年のことである。

中華皇帝の必需品、匈奴が皇帝の手を離れた瞬間だった。
前漢武帝が中華王朝のあり方を確定した。
その一つが異民族匈奴を傘下に収めること。

曹操以来魏晋は匈奴を傘下に収めてきた。
しかし、この西晋恵帝の304年の時に、
匈奴を失った。

西晋皇帝が、皇帝としての正統性を失った瞬間である。