歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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新しい王朝を作ったら武帝か?~唐の勘違い~

光武帝 武帝と同じく「世」。前漢武帝は世宗。光武帝は世祖。
光武帝は王朝の復興で、厳密には家は異なるから、だから世祖
武帝だが、前漢武帝がいるので、光をつける。
輝かしい功績を挙げたの意味。

曹操は魏太祖武帝。
太は始まり、祖は祖業の意味。
やはり武帝。新しい秩序、王朝を作った。

西晋武帝 世祖。
光武帝と同じ。
やはり新しい王朝、秩序を作った。
太祖は司馬昭。司馬昭が大元を創ったというのが西晋のスタンス。

南朝も同様。
北朝もやはりはじめは武帝。

日本の天皇で、武がつくのは三人のみ。
天武・聖武・桓武。

これは、前漢の武帝からの話である。
前漢武帝までは、
「文」という諡号は評価が高かった。
聖王のひとり、周の文王の印象が強い。
春秋五覇のひとり、晋の文公もやはり「文」だ。


問題は楊堅。彼はなぜ文帝なのか。

どうやら、文帝が最も尊いと考えていたか、
もしくは、父楊堅に対して諡号を行った煬帝が、
自身が武帝になりたいと思い、ワンランク下げたか。
楊堅で終わりではない、これで完成ではないという意味で。

しかし、唐の場合は、その煬帝の経緯を知らなかったのか、
唐の太宗も、初めは文帝という諡号を贈られている。
唐の高祖李淵が武帝だった。
多分これは唐の勘違いだ。
李淵が李世民より上ということはまずあり得ない。
当時の認識として確実にあり得ない。
高宗の時代に、権力を握っていたのは太宗の腹心たちなのだから。

勘違いの証拠が下記だ。
674年に、太宗の息子高宗が、
太宗の諡号を、
文武聖皇帝に諡号が改めた。
このような諡号は初めてのことである。
文と武を一人の皇帝が諡号として贈られる、前代未聞のことだ。

高宗から見て、祖父の李淵は、
武帝から神尭皇帝に改められた。
難しい判断だが、多分これは格が下がっているはずだ。

太宗と李淵はこの後また諡号が変わっている。

下記は全て玄宗の時代に行われた。
749年文武大聖皇帝(ぶんぶだいせいこうてい)に変更、
754年文武大聖大広孝皇帝に変更、これで確定した。

李淵は、
749年に神堯大聖皇帝、
754年に神堯大聖大光孝皇帝と変更、これで確定する。

現代の我々は、隋代までの皇帝を諡号の略称で認識している。
しかし、唐の太宗から廟号で呼ばれるようになる。
それはなぜか、
よく聞く説明は、
諡号が長くなったから、
これ以後は廟号で皇帝を呼称することにするという理由だ。

全くのでたらめであることが分かった。

唐の太宗の諡号は、長くなったのではなく、
間違いを隠すために、古例を破って長くしたのだ。

武帝が最上位の諡号なのを知らなかったのだ。

中華皇帝というのは、
皆前漢武帝の御代とイコールを目指す。
前漢武帝の事績とイコールの皇帝は、
武帝を名乗るのだ。

唐の太宗がそれにふさわしいのは間違いない。

しかし、それを知らなかった。

唐は知らなかった。

それで間違えた。

だから李世民は文帝だった。
もしかしたら楊堅も同じ経緯で文帝にされたのかもしれない。

当然後世から見ても、その当時から見ても
両者とも輝かしい業績を残した皇帝であることは間違いない。
両皇帝とも、中華を統一したのである。

当然武帝にふさわしいのを間違えた。
唐が間違えたのは明白だ。だから、太宗のの諡号に「武」を追加したのだ。

間違えたのを隠すために、
諡号の制定方法を意図的に変えた。
それで、これ以後、長々とした諡号になってしまう。


なぜ間違えたか。
この慣例、古例を知らない人が
決めたのだ。
諡号というのは、子が親を評価し名前を決める作業。
非常にデリケートな問題だ。
そもそも秦の始皇帝が言っているように、
非常に親不孝な行為でもある。


皇帝含め一部の人で決めた。
太宗の場合楊堅に倣ったのだろう。
しかしそれが間違えだった。
彼ら鮮卑は諡号の付け方を知らなかったのだ。