歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

劉禅は親政している。蜀漢の政治機構は漢のあるべき政治機構の姿に忠実。

蜀漢の政治機構は正に漢を継ぐものである。
三公は、司徒・司空・太尉である。後漢と同じである。
(前漢の三公は、丞相・御史大夫・太尉)

尚書省は設けられている。
本来の政治機構通り、
尚書省が皇帝直轄の機関なので、
ここが最高権力となる。

霍光以来の歴史通り、
尚書省のトップ録尚書事が政権のトップとなる。

さらに、蜀漢の場合は、
上記政治機構に加えて、
丞相がある。
結論として、蜀漢における、この諸葛亮の丞相は、
全権委任されたポジションである。

丞相は、前漢景帝までは、
首相のポジションであったが、
景帝により周亜夫が罷免されてから、
その地位は低下する。
武帝は親政を志向し、
尚書・中書の権力が増強される。

前漢哀帝の時に、
丞相は大司徒と改称される。
その後208年に曹操が丞相という名前を復活させて、
自身が就任するまで、丞相という名前は存在しなかった。
曹操はこの時に後漢の三公制を廃止して、
丞相と御史大夫を置いている。
曹操の場合は、丞相が、それまでの首相格の司徒と
軍事総司令官格の太尉を担うという
政治機構である。

諸葛亮も丞相に就任する。
諸葛亮の場合は、
後漢の三公の上に立つものである。

この政治機構は二つの側面から説明できる。

まず、三公の上に立つという事で、
これは董卓専横時に董卓自身が
就任した相国と同じである。

董卓は相国として全権を掌握し、
国政を壟断した。
これと構造自体は同じである。

実行したことが諸葛亮と董卓で異なるだけである。

もう一つの見方は、
曹操との比較である。

曹操は、御史大夫は別に置いた。
御史大夫は、前漢の名前で、
その後継官職になったのは後漢の司空である。
丞相・司徒が首相と言うならば、
御史大夫・司空は副首相と言えるポジションである。

これらも時代によって職掌が変わるのだが、
御史大夫の基本的な役割は、
官僚に対する監察である。

現代の三権分立の概念から、
司法権を持つと言いたいところだが、
この場合の司法権は、民事・刑事に関する
裁判権である。
それは、丞相・司徒にある。

御史大夫は、この時代の軍隊における
軍監に近い。
皇帝の信任のもと、
軍法を持って軍隊を統制する。
それと同様の役割が御史大夫・司空である。

曹操は董卓と同じにされるのを恐れたか、
御史大夫は別に置く。
実態がどうだったかはともかく、
そうした。実権は曹操にあるので見せ方に過ぎない。

一方、
諸葛亮は三公の上に立ち、
董卓と同様である。
名前が相国ではないだけである。

相国は前漢以前からある、首相格のポジションの名前であった。
元々は相邦と言ったが、劉邦の名を避けて、
相国となった。
前漢初期の蕭何・曹参は相国となったが、
その後は二人の功績に配慮して空位、
丞相が相国に変わる。

そういった経緯のある相国に董卓は就いた。
当然反発も強くあった。

諸葛亮が相国にしなかったのは、
それを配慮したものだ。

董卓の相国とは、
名前とやったことが違うだけで、
諸葛亮の丞相は同じである。

皇帝の信任を受けて、
諸葛亮は丞相として全権を委任された。

これがなければ、
後漢光武帝以来の後漢の政治機構と同じである。

時代時代によって、各政治機構が形骸化されたりはもちろんするが、
同じである。

すなわち、
尚書省が力を持って、皇帝親政となる。

全権を担った丞相諸葛亮は、
五丈原で陣没することで、権限を皇帝劉禅に返還する。

後漢は外戚などに全権を一旦預けると武力行使をしないと
権限は戻ってこないが、
蜀漢の場合はすんなり皇帝の元に戻ってきた。

諸葛亮の遺言で、後継者は蒋琬となったが、
その後継体制は諸葛亮とは異なった。

蒋琬が録尚書事に就くのは諸葛亮と同様だが、
軍権の握り方が違った。

諸葛亮は、
丞相として外廷のトップ、
録尚書事として内廷のトップについた。
外廷のトップとして、太尉の持つ軍権まで握る。

蒋琬は、
録尚書事として内廷のトップについたが、
外廷はここで事実上消滅する。
武官のトップである大将軍として軍権を握った。


本来丞相という形の全権委任は、
皇帝の幼少のためという理由が必要であった。

劉禅はすでに27歳で、それには当たらない。
ここで劉禅は親政を行う。

劉禅は皇帝として、
後漢の政治機構に基づくと、
尚書省を中心に親政を行うことになる、というわけである。

しかしながら、
時は内乱の時代である。
本来の支配すべき領域の関中・中原は魏という賊に押さえられている。
そのため臨機応変に軍事行動を起こせるように、
大将軍に開府を認めて、独自の行政機関を構成させる。

これは幕府に近い。

軍事は大将軍に開府させ、全権を委任する。
他は、録尚書事として事実上の首相として政務に当たるということだ。

諸葛亮の後継者とは言え、構図が異なる。

本来の後漢のあり方に立ち戻ったとも言える。
光武帝以来、
太傅および三公が録尚書事を兼任することで、
権柄を握ってきたが、
それと同様である。
外戚の専横が続くころには、
本来の非常設の大将軍が太傅および三公を凌ぐポジションとなる。

諸葛亮の丞相は、事実上の相国である。
全権委任という形で権限を握る。
蒋琬以降は、大将軍という形で権限を握る。
大将軍は非常設でそもそも武官であり、
非常時という名目で、全権を掌握するという建前があった。
相国とは権限の握り方が違う。

この辺りも
蜀漢が、極めて後漢の政治制度を意識していたことがわかる。

革新政権である魏が後漢の制度を踏襲しながら、
改変するのとは異なる。


 なお、
武帝以降はここに、外戚の専横、宦官の跋扈などで、
皇帝の権力が削がれるが、
蜀漢はその末期まではその徴候は現れなかった。