歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

司馬昭、逡巡の晩年10年。輿論に惑う。

司馬昭、逡巡の10年。輿論に惑う。
人が好く、万人は使えやすいが、司馬昭本人は心労が絶えない、10年だった。

~司馬師死去からの10年間、司馬昭の軌跡を辿る~

255年正月の次の閏月司馬師死去。司馬昭が後を継ぐ。
⇒突然の辞退。司馬昭の息子司馬攸が司馬師の後を継ぐことになっていたが、
自身が継ぐことに。

256年6月九錫賜与されるも、司馬昭は辞退。
⇒この時点で、歴史上九錫を受けたのは、王莽、曹操、孫権。
いきなり、歴史を変えるかどうかの判断を迫られる。

この後、賈充などを遣わして、地方に出鎮している都督クラスに、
司馬昭への禅譲の是非を探り始める。
⇒元々司馬昭は司馬氏を継ぐ立場ではなかったので、判断がつかない。
但し名族をはじめとした輿論の大勢は、禅譲を希望する。

257年5月~258年2月まで諸葛誕の乱
⇒賈充が吹っ掛けた乱。元々司馬師が賈充を引き上げたが、
この乱の顛末により、司馬昭は賈充を重用する。


258年5月【第一回辞退】
晋公・相国・九錫の三点を皇帝より賜与されるも、司馬昭は辞退。
260年4月【第二回辞退】 晋公・相国・九錫の三点を皇帝より賜与されるも、司馬昭は辞退。
⇒輿論の様子を窺う。必ずしも禅譲一色の風潮ではないと判断。

尚、諸葛誕の乱の後から曹髦弑逆までの間の、
258年5月以降260年5月以前に
司馬昭は司馬師の養子であり、司馬昭自身の子司馬攸の正妻に、
賈充の娘を迎えている。
⇒司馬昭は、司馬攸への後継を狙う。
本来司馬師の跡継ぎということであった司馬攸は
司馬昭にとっても可愛い息子であった。
しかし司馬師が亡くなり、司馬昭が継ぐとなると、
司馬昭が本家になってしまう。
司馬攸には、12歳年上の司馬炎がいる。
司馬昭の後継者に司馬攸がなるのは少し無茶をしなくてはならない。
そこで実行力のある賈充を味方につけることで、
司馬攸後継も狙う。
このあたりが司馬昭の人間臭いところだ。

260年5月魏皇帝曹髦弑逆。
「司馬昭之心,路人皆知」(出典は漢晋春秋)と曹髦は言い放って、
司馬昭を自身で誅殺しようとするが、賈充らに返り討ちにされた事件。
「司馬昭之心,路人皆知」は、
司馬昭の心は、道行く人は誰しも知っている、という意味。
現代中国でも使われる。権力をねらう野心家の陰謀はだれでも知っている、という意味で、
温家宝首相も引用している。
曹髦が司馬昭誅殺を宣言した際、王経らが諫めた際、曹髦が言い放った言葉である
司馬昭の偽善に激怒した結果である。
⇒司馬昭は焦る。朝廷に参内していない陳泰に気付く。
陳泰に善後策を図るも、賈充を殺せという。
それを司馬昭が受け入れられないとしてほかの案はと尋ねると、
それは憚りがあると陳泰は言う。司馬昭自身の処罰を指していることは
明らかだった。
司馬昭は結局成済という賈充の命令を忠実に聞いただけの者を
殺した。スケープゴートにした。
賈充はこれからも司馬氏のために必要である。
また、愛息司馬攸の舅である賈充を手に掛けるわけにはいかない。
司馬攸のキャリアに傷がつく。
魏のアンチテーゼが司馬氏である。
法運用は基本的に甘く、寛恕を理念とする。
しかしこの司馬昭の処理は、歪曲したものだ。
司馬昭はこの事件の処理により法運用にイレギュラーを作った。
そのツケは子孫に帰ってくる。
皇帝弑逆はそのままにすれば、死につながる。
これから逃れるためには司馬昭が禅譲を受け、皇帝となる他なかった。

260年6月【第三回辞退】 晋公・相国・九錫の三点を皇帝より賜与されるも、司馬昭は辞退。

261年8月【第四回辞退】 晋公・相国・九錫の三点を皇帝より賜与されるも、司馬昭は辞退。
⇒輿論の様子を窺うも万全ではない。
この辺りから、禅譲へのわかりやすいきっかけを探し始めたと思われる。
その結論は、蜀漢討伐であった。

263年2月【第五回辞退】 晋公・相国・九錫の三点を皇帝より賜与されるも、司馬昭は辞退。
⇒蜀漢討伐の腹を決めていた司馬昭は、ここでもう一度輿論を忖度する。
やはり万全ではない。蜀漢討伐に賭ける必要性を改めて確認。

263年5月 蜀漢討伐の勅命。
⇒禅譲への道を開くにはこれしかなかった。
道が開けばいい。漢中まで取れれば、禅譲へ一歩進むことはできる。
鍾会以外全員に反対されてもやってみるほかない。
失敗すれば、鍾会に責任を擦り付けるぐらいのことは考えたであろう。
人の好い司馬昭でもそのぐらいの損得勘定はできる。


263年9月に長安を発した鍾会の軍勢は、
翌10月に早々に漢中エリアを掌握する。
それを受けて、
263年10月22日 司馬昭、晋公・相国となり、九錫を受ける。
第五回にしてようやく受ける。(九錫に関しては、6回目。)
漢中を落としてからのスピードが尋常ではない。

⇒曹髦弑逆の影は司馬昭に大きなプレッシャーを与えた。
ここまで見てわかる通り、司馬昭は、父司馬懿・兄司馬師のような、
豪胆なタイプではない。冷静沈着なタイプでもない。
むしろ、鋭利な刃物のような兄と好対照に、人の好いキャラクターである。
だからこそ曹髦弑逆はうろたえた。その後も沈痛な思いをした。
人が好いからこそ、周りに振り回される。
それも吸収できるのが司馬昭に人望がある由縁であろう。
だからこそ、漢中掌握で司馬昭は浮かれた。
実行まで三年、念入りに計画を立てた蜀漢侵攻。
当面も目標は漢中獲得。それが、鍾会の長安出発から経ったの
二か月足らずで漢中を獲得するという快挙。
浮かれてもやむを得まい。
待ってましたと言わんばかりの、晋公・相国・九錫を受ける。
何とも人間らしい振舞である。ここまで来ると、何となく憎めない部分すらある。
漢中陥落の報に、厳密な態度で臨む司馬昭は全く想像できない。
せめて鍾会に対して、慰労の使者ぐらいはあってもよかった気もする。

晋公領は、
以下10郡。
太原・上党・西河・楽平・新興・雁門(ここまで并州)、
河東・平陽・弘農(ここまで司隷校尉)、
馮翊(雍州)を封地とする。春秋晋の領地と同じ領域とのこと。
⇒大半が、後の八王の乱、永嘉の乱の震源地なのは非常に興味深い。
 
263年11月日付不明漢皇帝劉禅、鄧艾に降伏。
263年12月日付不明姜維、涪城の鍾会に降伏。
263年12月日付不明郭太后死去。
264年1月1日鄧艾拘束及び洛陽移送の詔勅。
263年1月3日司馬昭、魏元帝を奉じて長安に向かう。

⇒漢中掌握以後の蜀漢討伐は、剣閣で鍾会が足止めを喰った時点で手詰まりであった。
そもそも、手ごわい姜維とほか蜀漢とを分断するのが当初の作戦であったが、
姜維を逃した時点で失敗ではある。
鍾会が漢中を迅速に押えたからこそ、司馬昭は晋公に昇れた。
鄧艾、諸葛緒は作戦を失敗している。
それが思いのほか、鄧艾が蜀漢を滅ぼした。
司馬昭にとってそれは意外だった。
意外過ぎて事態についていけていない。
鍾会と鄧艾は連動できておらず、鄧艾からは呉をこのまま討伐すべしという話も来ている。
当座、まあまあということで情勢を落ち着かせるために、
鍾会を司徒、鄧艾を太尉にした。
鍾会はここで激高したと思われる。鄧艾と同格の報酬など受け入れられない。
司馬昭は評価を誤った。鍾会は反乱を決めた。
鍾会からは鄧艾の独断専行を糾弾する書状も来て、
司馬昭は相当に混乱した。 
鍾会からはさらに書状が来て、鄧艾の専横の証拠が届けられる。
これは鍾会が改竄した偽書であった。これで司馬昭は鄧艾の更迭を決める。
蜀の混乱を鎮めるため、司馬昭自身は長安、長安にいる賈充を漢中に移動させる。
想像以上の大成果過ぎて、司馬昭が狼狽える姿が想像できる。
蜀漢を滅ぼした後のプランがあれば、このようなことにはならない。
漢中制圧および晋公・相国・九錫を受けるスムーズさと対照的だ。
慌てて司馬昭は長安に向かっている。郭太后の葬儀もペンディングにして、
魏皇帝を奉じて長安に移動している。慌てている。

263年1月15日鍾会、成都入城。鄧艾を洛陽に檻車で送り出す。
263年1月16日鍾会反乱宣言。郭太后の偽の遺詔を大義名分とする。
263年1月18日鍾会、魏軍の胡烈らの反乱により殺される。
 
⇒この討伐軍の従軍将校を鍾会以外は司馬氏の与党で占めたのがここで利いた。
胡烈が直接的に鍾会を打倒した。衛瓘が事態を収拾した。
衛瓘が、とあるが、鍾会とともに鄧艾を讒言している。
どこか怪しい。この軍勢には司馬昭の義弟(妹婿)杜預の従軍している。
杜預は鎮西大将軍鍾会の長史として従軍しているが、
鍾会に全く与しなかったということで罪を免れているという記述がある。
またその後、杜預は、衛瓘が鄧艾を陥れたことを批判、
衛瓘は杜預に詫びを入れているという事績がある。
衛瓘には確実に後ろめたいことがあった。対して杜預には一切後ろめたいことはなかったのだろう。
杜預の安定力がここで効いた可能性は私は高いと思う。
杜預がいなければ、状況によってコロコロ対応が変わる衛瓘が司馬昭のために本当に動いたのだろうか。
杜預がいたからこそ、早期に事態は収拾されたのである。

264年3月19日司馬昭、晋王となる。
3月27日 劉禅、安楽公となる。

3月日付不明、司馬昭は劉禅の為に宴席を設ける。
司馬昭が劉禅に蜀は懐かしくないかと尋ねて、
劉禅は全く懐かしくありませんと返すあのやり取りのあった宴席だ。
 
普通に考えて、
この宴席は、
劉禅が安楽公に封じられる前であろう。
処分保留として、司馬昭が面会する。宴席という場で。
宴席では司馬昭が亡国の天子となった劉禅を慰めるという
立ち位置である。
これもやはり普通に考えて、晋王に就いてからであろう。
その前ではさすがに気もそぞろで、宴会どころではない。
 
 
司馬昭は晋王に就いてから、
亡国の天子劉禅を見下ろす形で、宴席に臨む。
権力の絶頂にある司馬昭を、劉禅は仰ぐ。
 
この図式が正しいのではないか。
 
264年5月1日 裴秀の建議により、
司馬昭が五等爵の賜与を上奏。おそらく7月に実施。
鍾会のような名族の反発を抑えるため、かつ名族の支持を得るため。
今後起きる事態に反対しなければ、皆さんの地位は保証しますという
宣言に等しい。
 
264年10月20日 司馬炎を晋王の世子とする。
 
⇒ここまで固めたら、後は熟柿が落ちるのを待つばかりである。
つまらない、やらせの瑞兆を報告させ、
タイミングを見計らう。
やむを得ないのではあるが、
このあたりは、何度も、晋公・相国・九錫の
三点セットを司馬昭が6度辞退(256年6月【九錫のみ】、258年5月、260年4月【この後曹髦弑逆さる】、261年8月、263年2月、そうして263年10月にようやく受ける。)
しているのと同じいやらしさ、偽善である。
 
265年8月9日 晋王相国司馬昭死去。
265年9月24日 司馬昭、埋葬される。

⇒司馬昭は、結局最後まで翻弄された。
名族が担ぐにはうってつけの人材だが、
当人は担がれても一切嬉しくはなかったに違いない。
最期は、皇帝に就くこともなく、野営地で急死する。
中風と言われる。脳出血など脳の病気のことである。


265年12月晋王相国司馬炎、魏皇帝元帝から禅譲を受ける。

司馬昭は、悪人というより、ただ人が好いだけで、
周りに翻弄され続けたとしか思えない。
決して憎めない人だったに違いない。

兄の急死が、司馬昭の運命を変えた。
本人の望まないものだった。