歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

賈謐二十四友 詳細 ㉓劉輿・㉔劉琨兄弟 その1・・・司馬越により兄弟は抜擢される。

賈謐二十四友で、

劉輿・劉琨兄弟が最も注目すべき人物だと私は考える。


 

劉輿は賈謐二十四友の中で事実上の出世頭である。

劉琨は并州という要地を任される。

鮮卑の拓跋部と段部を中原の争いに直接関わらせた当事者である。

さらに匈奴の并州侵略に抗しきれなかった并州刺史でもあった。

これから約300年続く中華の民族シャッフルの直接的原因を作った人物である。

 

そのため事績も多い。

西晋末期の重要人物の一人だと私は考える。

 

簡潔にまとめると、彼らは下記の三つがそのスタートである。

・司馬越の高い評価を得ている。

・もともとは、司馬倫の皇太子司馬荂(シバフ)の姻戚である。

司馬荂は司馬倫の執政孫秀と対立していて殺害しようとしたが、

逆に殺された。これにより、劉輿・劉琨兄弟は司馬倫が滅びた後、

司馬冏により許される。

・劉輿・劉琨兄弟は前漢皇帝の末裔である。

 

まずは、司馬越が彼らを重用したところから話を始める。

 

彼ら劉輿・劉琨兄弟は、

司馬越が八王の乱を勝ち切り、

307年に政権を確保したときに重用された。

 

これは、司馬越の立場からすると、

大きな理由がある。

 

彼らが、

前漢中山靖王劉勝の末裔であるからである。

 

これは非常に重要な事実である。

 

反西晋のスローガンは、

漢の復興であった。

 

当時西晋に反旗を翻していた者は全て漢の復興をスローガンに

勢力を拡大していた。

益州の成漢、

流賊の張昌、

匈奴の劉淵、

全て漢である。

 

彼らは全て八王の乱の間隙を突いた反乱である。

 

この中で、

特に匈奴の劉淵は、中華文明に関する深い知識から、

国家体制を着実に固める。

劉淵は漢の後継者を自認した。

蜀漢後主劉禅を懐帝と追号し、

その次代として自身の位置付ける。

劉備は烈祖という廟号を贈り、劉淵の宗廟に祀る。

 

匈奴の劉淵が中華文明に対する高い見識を持ち合わせ、

かつ中華国家の建設ができるブレーンがいる証拠である。

 

さらに、当時蜀漢という存在が決して忘れ去られた存在ではなく、

歴史の中に生きていた証拠でもある。

 

西晋は、漢を滅ぼした。

天命を受けていない。

漢こそが本来の中華王朝である、

それは唯一無二のものなのであるという考え方が残っていたのである。

 

西晋から見れば漢の亡霊が出てきたといったところか。

 

確かに西晋は武帝司馬炎の崩御の後、

司馬越が政権を摂るまで、17年間内乱続きであった。

最後の7年間の内乱は、殺戮続きで、西晋はこれでもう終わりだと思わせるに

十分であった。

 

その旗頭は、またもや漢なのである。

 

それに西晋を掌握する司馬越が、

対抗するには、漢の血筋も西晋を支持している、支えているというのが

必要である。

 

この辺りに司馬越の政治センスを感じるが、

そこに引き上げたのが、この劉輿・劉琨兄弟である。

 

司馬越にとって、劉輿・劉琨兄弟は、

有能である必要はなかった。

漢の血筋が司馬越政権を支えている形があるだけで、

匈奴漢の劉淵たちに対抗するには十分である。

 

彼ら劉輿・劉琨兄弟は、賈謐二十四友に数えられるほど、

文才は元々轟いている。

 

政権を運営を経験がなくとも司馬越にとってはよいのである。

 

 

しかしながら、

兄弟を引見した司馬越は実務にも活用できると考えた。

 

司馬越は、自身の輔佐として登用する。

しかしながら、ほどなく、病気になり死去した。47歳だった。

洛陽が匈奴により陥落させられる311年より前に世を去る。

劉輿の子、劉演は、父劉輿の病に孝道を尽くすため、一度職を辞しているが、

その後司馬越の招きに応じて任官しているので、司馬越が存命中に

劉輿は亡くなっている。

 

劉輿が中央政権に携わる期間が短いので、

見逃されがちだが、劉輿に対する司馬越の信頼があってこそ、

劉琨の処遇がある。

 

琨も、司馬越に登用されるが、

彼があてがわれたポストは并州刺史である。

司馬越が八王の乱を勝ち切って政権を確保した307年に就任している。

 

上記の兄劉輿が司馬越の国家運営の輔佐になったタイミングと同じであり、

兄の登用があって登用された。

当然であるが、中央ポストの方が格は上であるが、

この并州刺史は司馬越政権の肝でもある。

 

少しこの経緯について記すと、

司馬越は、司馬乂を司馬穎・司馬顒陣営に売り渡してから、

八王の乱に巻き込まれる。

司馬越が八王の乱を勝ち切るにあたって、次弟司馬騰の貢献は非常に大きかった。

 

司馬越が恵帝を奉じて鄴の司馬穎を攻撃した蕩陰の戦いに敗れたのち、

司馬騰は反撃する。

 

司馬騰は持節都督并州諸軍事・并州刺史として

296年頃から就任していた。拓跋弗の改葬に使者を遣わしている。)、

同じく都督幽州諸軍事・幽州刺史の王浚と連携。

鮮卑の段部や烏桓の支援を取り付け、鄴を再攻撃。

王浚も幽州から鄴を突き、陥落させる大功を挙げる。

その後は、鮮卑拓跋氏の支援を元に匈奴劉淵を二度攻撃し勝利している。(3047月と3056月)

しかしながら戦況は匈奴劉淵に有利に進み、

司馬騰は并州の民2万戸を山東に移す。

当時司馬騰は鄴攻略に従軍しているので、その隙を突かれた。

匈奴の勢いが強いため、漢族を山東、この場合の山東は太行山脈の

東の意味であろう。すなわち司馬騰のいる鄴方面へ移動した。

 

307年に、司馬騰は鄴を司馬越より預けられ赴任する。

鄴は司馬穎の本拠地で、かつ西晋にとっては重兵を駐屯させる重要な副都である。

司馬越が信頼でき、大功を挙げた次弟司馬騰を当てるのは順当である。

 

問題は、司馬騰の後任である。

上記のように司馬越が八王の乱を勝ち切る原動力となった并州刺史の掌握と、

脅威が増している匈奴劉淵を抑え込むという非常に重要な大任に当たることになる。

 

国防上重要ということはさりながら、

并州を押さえないと司馬越政権は直接持っている軍権を失うことになり、

致命傷になりかねない。

 

そこに、

劉琨は抜擢されたのである。