歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉淵の父劉宣が胡漢融合モデルの創始者

劉淵は匈奴漢の事実上の立役者と言われる。
これは広く認められるところだが、
実態は誤りだ。大事なのは、劉宣である。

 

 

劉淵自身は、
劉宣が死去してから2年ほどしか政権を保持していない。

それまでは劉宣が匈奴を統括し、
劉宣が匈奴漢を事実上建国したのだ。

 

劉宣の死去が308年、
劉淵の崩御は310年8月だ。

劉宣は劉淵の父であると私は主張している。

 

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●劉宣、この胡漢融合の歴史上、最重要人物劉宣

 

 

この劉宣という人物が308年まで存命であることが、
匈奴漢の勢力維持に大きく貢献した。
というより、事実上の差配してきた。

劉宣の行なった政策は下記三つだ。

 

・大義名分:
匈奴の漢王国としての自立、
・戦略面:
司馬穎・司馬顒勢力との引き続きの提携
・匈奴統治:
単于位の復活。匈奴としての独立を印象付け、
曹操以来分裂状態にあった匈奴をまとめ切る。

 

 

内外に向けて方便を使い分けることで、
劉宣は匈奴としての自立と、西晋との両立を成功させた。

 

政治の実態はこのように泥臭いものだ。

そうでなければ、ただ袋叩きにされるだけである。


司馬越勢力とは引き続き対立するので、
戦いは続く。

この、劉宣が作った胡漢融合モデルが
今後の歴史に大きく影響を及ぼす。
そう考えると、この伝説上の歴史の中に埋没してしまった
劉宣という存在は何とも虚しい。

本来は、歴史上のキーマンなのに、である。
本当のキーマンだからこそ、表に出れないという部分も
あるのだろう。
唐の太宗にとって、劉宣は都合の悪い人物だった。
そのため消された。

 

●●晋書の問題点●●

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さて、私が劉宣こそが匈奴漢の事実上の運営者であると
言い切るのにはさらに理由がある。

 

 

●劉宣の死後、匈奴漢は攻撃的になる。

 

 

 

この匈奴漢は、
劉淵の子劉聡が崩御する318年の段階で一度滅びる。
それは、急速に先鋭化したためである。

初めは劉宣の差配により、うまくバランス感覚を保っていたのに、
それが崩れたのは一体いつなのか。
それは、
劉宣が死去した308年から匈奴漢は途端に先鋭化するのだ。

具体的には、西晋の勢力圏を積極的に攻撃し始める。

ここからは、
攻撃的な異民族として匈奴漢を定義して、
事績をなぞっていったほうが理解しやすい。

馬を駆って攻撃し、
都市を掠奪する。
成果物を互いに見せびらかし合い、
成果を誇り合う。
人もさらう。奴隷とする。

●●●●匈奴の習俗●●●●●●

 

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そこには、
農耕文明への理解などない世界だ。

耕地や都市は徹底的に破壊される。
匈奴にとっては価値がないからだ。
そもそも活かす術を知らないのだ。

これは遊牧民の文化である。
後年のチンギスハーンも同じ考えであったので、
文明の遅れではなく、文化なのである。

話を戻すと、
劉淵の死後は特に匈奴らしい歴史である。
兄弟間の後継者争いは匈奴のお家芸。

劉淵の後を継いだ劉聡は、ずっと匈奴本国で育ったため、
漢文明を理解し得ない。

皇后を沢山設けたり、
奢侈に奔る。
対外戦略は常に力押し、
西晋の懐帝、愍帝をそれぞれ捕らえるも、
活用の仕方がわからず、結局散々侮辱した後で
殺すぐらいしかできない始末。

 

漢の視点から見るととんでもないが、

匈奴の視点から見ると実は当然と言えば当然のことである。

力がある者こそ正義である。

 

劉聡は正に匈奴の王者であった。

劉聡の死後再度後継者争いが起き、
匈奴漢は滅びる。

匈奴の最大の弱点は、
権力の相続であった。

常に後継者争いが起きる。
それは匈奴が完全な実力主義であったからである。
どれだけ強力な単于であっても息子も同様でなければ、
必ず後継者争いが起きてしまうという漠北の掟による。

匈奴はこれにより、分裂を繰り返し力を弱め、

南匈奴が

漢の軍門に下ったのである。
そしてこの匈奴漢もやはり後継者争いで潰れた。

 

●●●●●●政局と内部事情から308年に方針転換をする匈奴漢

 

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●匈奴漢に匈奴らしさが出てきたのは308年以降


さてこれが匈奴漢の結論なのだが、
再度言うと、本来の匈奴らしさが出てきたのが308年なのである。

308年10月の劉淵の皇帝即位がその最たるものではあるが、
それ以上に大きいのは、308年1月に
東西に戦線を拡大したことである。

これまで、主に司馬越の次弟司馬騰配下からの攻撃に対応する形での
戦いが多かった匈奴漢。

ここまでは西晋皇帝の御代における内戦に過ぎない。

しかし、308年1月からはその枠組を越えて、
自勢力の拡大を目指すのである。


その理由は何か。

匈奴漢の戦略の失敗による方針転換が大きい。

 

・306年10月司馬穎の処刑
・306年11月西晋恵帝の崩御→懐帝の即位。
・306年12月司馬顒敗死。
・307年12月司馬越、丞相になる。懐帝の反発に対抗するための措置。

・304年10月に漢王となった劉淵。
この当時は、
八王の乱の最中で、
政局、戦局が混迷していた時期。

司馬越側と、司馬顒・司馬穎側が凌ぎを削って争っていた。
劉淵は司馬顒・司馬穎側に与する。

懐帝は、司馬顒によって皇太子に擁立された。
そのため司馬顒・司馬穎側に立つ。

劉淵にとっては、
司馬顒や司馬穎が打倒されることは打撃である。
306年のそれぞれの死去は劉淵にとってマイナスだ。

・懐帝は確かに司馬顒側で劉淵にとって
好ましい即位に見える部分もあるが、
懐帝の正統性は少々厳しい。

●●●●懐帝●●●●

 

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恵帝の毒殺の疑い、
恵帝の弟とは言え、その血統は当時としてはかなりの末端。
絶対無比の恵帝に比べると圧倒的に権威が堕ちる。

このタイミングで西晋の世を見限ったとも見える。

・懐帝は司馬越と対立し、
307年12月にその状況に耐えられなくなった司馬越は、
懐帝に与する者たちを排除する。
そうして、司馬越は丞相となる。
丞相の意味は時代によって変わるが、
司馬越にとっての丞相は文武の全権掌握という意味であろう。
それも皇帝を通さない、全権委任の意味だ。

既に録尚書事である司馬越は全権掌握の権限があるのだが、
尚書というのは皇帝直下の意味である。

結果的に皇帝を御することができるポジションなのだが、
その皇帝が尚書およびそのトップ録尚書事を通さないということであれば、
丞相として全権掌握を勝ち取るということだ。

これで、司馬顒・司馬穎側の懐帝までも、
隅に追いやられたわけである。

この後、年が明けてすぐ、
匈奴漢は東西に攻め込むので、
この政局は匈奴漢の方針に影響を与えた。

しかし、軍略上はベストではなかった。
307年は、
汲桑・石勒軍が中原で戦ったタイミングであり、
成果として司馬騰が敗死していた。

任せられる弟が亡くなった司馬越は、
自分で汲桑・石勒軍を攻撃、
壊滅させる。

本来ならば、
ここで并州側から汲桑・石勒軍を支援すべきだったが、
それはできなかった。


307年に新たに并州刺史になった劉琨との戦いで、
匈奴漢は敗れている。305年にあった并州飢饉の影響もあったのではないか。
劉琨は晋陽に入る。

308年初頭において、
司馬越勢力の圧倒的有利が確立されていた。

旧司馬穎・司馬顒勢力で残っているのは、
匈奴漢の劉淵のみである。

なお、
このつながりで司馬越に負けた石勒は劉淵のもとに逃げ込んだのである。

 

●308年に匈奴漢は孤立。劉宣のバランス路線の失策:

 

 

ようやく308年になって
匈奴漢は積極的な侵略を始める。

目的は東は河東確保、西は太行山脈越えである。

政局上は軍事的に動かざるを得ない状況だ。
司馬越が丞相となる。
匈奴漢は孤立した状況。

攻めなければやられる。

劉宣のバランス路線を放棄した瞬間だった。

既存の西晋の枠組の中で、我ら匈奴は生きていけない。

というわけだ。

ここから匈奴漢の本格的な侵略が始まる。

河東確保、
東は太行山脈を越えて鄴を確保し、
308年10月に皇帝として即位する。

私はこの時点で劉宣は死去していたと思われる。

劉淵は配下の匈奴勢力の求めに応じて、
皇帝として即位した。

しかしながら、劉淵は止むを得ずだったのではないか。


当時の風潮は異民族は皇帝になれないという考えが当然だった。

漢の教養を備えた劉淵は当然それを知っていた。

この皇帝が虚構であることを
皇帝である劉淵は知っていたのである。

匈奴漢の方針を決めたのは劉宣だが、
劉淵はそれに積極的に従っていた。


しかし匈奴を取りまとめ得た左賢王の劉宣が死去すると、
劉淵はその後ろ盾を失い、
皇帝として即位するほか匈奴の支持を
得る方法がなかった。

西晋、中華を踏み荒らせ。
徹底的に破壊しろである。

劉淵は人質時代から人生の大部分を洛陽で過ごしている。

それを60歳間近の晩年に、自身の手で破壊したいとは思わない。
洛陽や中華は事実上の故郷なのだ。

司馬穎から離脱した後も援軍を出そうとした劉淵である。
徹底的に破壊したいなど思うわけがない。

それが人情だ。

これ以後、匈奴漢は至る所で、漢の文明を徹底的に破壊するが、
それは劉淵の本意ではなかった。

しかし、政局と内部事情の変化から必要に迫られ、
匈奴漢は急速に異民族化するのである。


劉宣の胡漢融合モデルの崩壊であった。