歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

賈后評価の誤解〜賈后の動機は自己防衛〜

賈后を冷静に見つめ直したい。

 

賈后は、結果として、

政権運営の能力がある。

夫恵帝が皇帝即位までに至る最大の功労者であり、

恵帝の高い信頼を得ていた。

しかし、自身の立場の不安定さに常に苛まれており、

賈后の立場を脅かすような周囲の行動に極めて敏感であった。

敵と見たら、その排撃への意志は非常に強い。

賈后に全幅の信頼を寄せる夫恵帝も巻き込むので、

常に国家単位の動きとなる。

 

以下5点から、私がそう定義するに至ったポイントを述べる。

賈后の心情に迫ることが目的なので時系列は意図的に崩してある。

 

①二度のクーデターを成功させた後、張華に政権運営を任せる。(291年)

②楊氏打倒のクーデターの原因(291年)

③皇太子との対立(299年)

④司馬亮・衛瓘の何を嫌がったのか。(291年)

⑤恵帝の皇帝即位に関して(290年まで)

 

なお時系列にすると、

⑤→②→④→①→③の順である。

 

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賈后の実態を探る際に、

まず引っかかったのが、賈后の張華登用である。

 

賈后は楊氏を滅亡させた後、

司馬亮・衛瓘に政権を預けた。

しかし賈后は早々に司馬亮・衛瓘を殺害する。

張華が賈后に進言をして、

乱をまとめている。

 

 

賈后は張華を信任して、

事実上政権運営を任せている。

約10年平穏な時代が続いた。

 

石崇の金谷二十四友たちの

活躍を考えれば、

太康の繁栄は、

元康年間も続いた。

 

賈后と張華の繋がりが突如現れたことに驚く。

張華は賈充の政敵である。

父の政敵を賈后は自身の政権の首班として

採用した。

 

張華は直言居士である。

武帝司馬炎にも煙たがられている。

賈充にもそれで嫌われている。

張華は司馬攸を支持して武帝司馬炎に嫌われ、左遷された。

張華は父賈充の政敵であるだけではなく、

夫恵帝のライバル司馬攸の支持者でもあった。

当然であるが、恵帝が即位できなければ、賈后は皇后になれない。

 

賈后が張華を恨んでもおかしくはない。

いや、我々の賈后に対する印象は、確実に恨むはずだ、であろう。

 

しかし賈后は張華に政権を預けるのである。

 

ここで、賈后の人物像が一つ崩れる。

 

となれば、なぜ賈后は張華に政権を預けたのか。

 

それは、そもそもなぜ楊氏を賈后が倒そうと思ったかにつながってくる。

 

 

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賈后の嫉妬深さは、母の影響である。

母は郭槐という。常に対蜀漢戦線に従事し、

最後は都督雍涼州諸軍事まで昇った郭淮の姪である。

父賈充は元々李豊の娘を妻としていたが、

李豊の変で李豊が処刑され、妻を離縁することになった。

その後賈充はこの郭槐を後妻に迎えたことで、

司馬師に仕える機会を得たので、

頭が上がらなかった。

郭槐は男子を二度産んだが夭逝してしまう。

長子賈黎民は、

乳母が抱いているところ、賈充が近づいてあやした。

それを遠くから郭槐が見ていて、

賈充が乳母に言い寄っていると勘違いをしたで郭槐は

嫉妬し、乳母を鞭で打ち、殺してしまった。

賈黎民は、乳母の死を悲しみ、発病し死んでしまった。

激しい女性である。

中華女性の激しさは、既に後漢期には始まっていたので、

郭槐のスタイルは決してイレギュラーではないようだが、

夫唱婦随もありそうなこの時代においては、

相当に激しい方であろう。

当然、そのような母郭槐のスタイルは、

娘賈后に大きな影響を与えた。

世間では誰もが頭を下げる高官の夫を

尻に敷き、

嫉妬のあまり夫に関わる女性を殺してしまうのは

全く同様である。

 

武帝司馬炎は賈后を廃そうとしたことがあった。

嫉妬のあまり恵帝の側室を殺している。

身重の側室の腹に戟を投げて殺したことがある。

当然武帝司馬炎にとっては孫であるので、激怒した。

 

楊太后は賈后のために武帝司馬炎に取りなした。

何とか武帝司馬炎の赦しを得たが、

賈后は楊太后が武帝司馬炎に告げ口をしたと考えた。

楊氏との確執は、この賈后の勘違いから始まる。

楊氏が武帝司馬炎に賈后のことを悪し様に言っていると

思い込んだ。

 

この時賈充は既に世になかった。

賈氏は幼年の賈謐が継ぐことになり、

賈后にとって実家は全く当てにならなかった。

 

賈后が中々男子を産めないこともあり、

非常に不安定な立場にあった。

 

楊太后は男子を産んだが夭逝し、

その点では賈后と同じであったが、

楊氏一門という外戚が楊太后を守っていた。

 

賈后の不安定な立場は、

嫉妬と強い劣等感を産む。

ちょっとした誤解が

楊太后への怨恨を産み、それは後の大乱を引き起こす。

 

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賈后の策謀で、

皇太子司馬遹を廃したことで本格的な八王の乱が始まる。

賈后が43歳で年齢的に子を産むのが難しくなったことで、

自身の政権基盤が不安定になる。

皇太子司馬遹は賈后に対立姿勢を見せる。

 

賈后は、四人の娘を産んでいたが、

男子には恵まれなかった。

 

皇太子司馬遹は恵帝が即位をしたで290年に

同時に皇太子に立てられていたが、

賈后が男子を産んだ際には、

皇太子にすげ替えるつもりだったのであろう。

司馬遹は武帝司馬炎から愛されていたとはいえ、

母は側室で、出自が肉屋の娘である。

このあたりの由来は、後漢末の少帝と似通っている。

母何太后の家は屠殺業を営んでいた。

何太后の兄は何進である。

出自の問題もあって、

弟で後の献帝劉協と後継者を争うことになる。

 

賈后が男子を産めば、

何らかの形で後継者問題を引き起こし、

賈后の実子を皇太子にすげ替えるつもりだった。

 

だが男子に恵まれず、

それは叶わなくなったのである。

 

甥の賈謐が刺激したこともあり、

皇太子司馬遹と賈后との関係性は悪かった。

 

皇太子妃時代から強い不安感を覚えていた賈后は、

この状況に関して、またもや強い不安を覚える。

 

 

 

 

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④賈后は楊氏を滅亡させた後、

司馬亮・衛瓘に政権を預けた。

 

しかしすぐに賈后は彼らを嫌がり、

滅ぼしてから張華に政権を預ける。

 

何を嫌がったのか。

 

彼らがまず行ったのは、

東安王司馬繇(司馬伷家)の左遷である。

 

その後、司馬瑋の排斥を画策する。

 

司馬繇は司馬亮の個人的嫌悪が原因である。

司馬繇は司馬亮の甥である。

司馬繇は、

司馬亮の同母弟ですぐ下の弟司馬伷の三男である。

司馬伷は当時既に死去していた。

司馬伷は子らに封邑の分配相続を希望して武帝司馬炎に

許されていたので、その中で豪気な司馬繇が世に出てきたのである。

司馬繇の次兄司馬澹はそうした弟の司馬繇を疎ましく思い、

宗師司馬亮に讒言したのである。

司馬亮も言うことを聞かない司馬繇を嫌っており、

この左遷となった。

 

司馬瑋は、軍兵を率いて、洛陽に駐屯していた。

都督荊州諸軍事であったので、軍権を持っていたのである。

さらに、司馬瑋の性格は乱暴なので、司馬亮・衛瓘は

排除したかった。

 

司馬繇、司馬瑋の件は、

中華の歴史においてありがちな話である。

 

司馬亮・衛瓘を擁護する視点で語ると、

宗師である司馬亮には宗族管轄権はある。

さらに、同母弟の司馬伷は、同母兄の司馬亮に

子供達を頼むぐらいのことは言い遺して死んだであろう。

宗族のことは司馬亮に決定権がある。

煙たい司馬繇を排除するぐらいのことは、

政権を担う司馬亮がやってもいいだろうぐらいの考えだ。

 

司馬瑋の排除も、

文官畑を歩んできた衛瓘らしい判断だ。

軍権を握って洛陽に駐屯し、乱暴な性格の司馬瑋は

政権の適切な運営に障害である。

排除しましょう、ぐらいのことを司馬亮に言ったのだろう。

 

両人の考えは非常に甘いと言わねばならない。

 

司馬繇、司馬瑋ともに

楊氏滅亡の功労者である。

楊氏を滅亡させる謀主は賈后なのである。

 

賈后は楊氏排撃を始め、司馬亮に依頼したが断られて、

司馬瑋に頼んで成功している。

 

司馬亮は確実に賈后の能力を下に見ていた。

また賈后の動機を考えていなかった。

 

賈后は自己防衛のため楊氏を滅亡させた。

それに協力した者を排除する、

司馬亮・衛瓘は、賈后にとって、

自分自身を排撃していると考えた。

 

それが賈后の、司馬亮・衛瓘排撃につながるのである。

 

賈后の気持ちは、

理解されなかったのである。

 

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暗愚と言われる皇太子司馬衷が皇帝に即位できたのは、

賈后のおかげである。

 

良く知られているように、

武帝司馬炎が恵帝に対して行った試験を賈后は助けた。

 

武帝司馬炎が尚書の案件を皇太子時代の恵帝に

決裁させて見たことがある。事実上の抜き打ち試験である。

 

皇太子司馬衷は判断できなかったので、

賈后、当時は皇太子妃であるので、賈妃は側近に

処理をさせた。しかし、

それは歴史上の故事を多く引用していたので、

宦官の張泓は、

皇太子の無学は武帝司馬炎もよくよく知っているので、

故事は使わずに事実のみで判断すべきと進言され、

賈妃はその進言を取り、張泓に草稿を作らせた。

皇太子司馬衷に草案を提出し、写させた。

尚書の案件なので、

皇帝への上奏である。

武帝司馬炎が判断し決裁するところを皇太子司馬衷に

やらせてみたということだ。

皇帝の決裁なので天下に関わることである。

基本的には歴史上の故事を論拠に判断するケースが多い。

律令関連は、官僚の運用論拠なので、そう言ったものは上奏にならない。

 

このように、

恵帝、皇太子時代の司馬衷のために骨を折る賈后(賈妃)は

恵帝の信頼を得ていただろうが、

賈后の動機は自己防衛である。

 

賈后は実家が当てにならない。

皇太子司馬衷は本当に皇帝になれるかわからない。

唯一の手堅い支持は武帝司馬炎だったが、

輿論の大勢は後継者を司馬攸に、であった。

 

もし皇太子司馬衷が皇太子を廃されでもしたら、

再度這い上がるのは非常に難しい。

夫司馬衷は無学で当てにならず、

実家は力がない。

 

賈后は自分の身を守るためには、

自分自身で身を守るしかなかった。

 

何が何でも夫を皇帝にするほか、自己防衛の道はなかったのである。

 

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張華の登用は賈后の自己防衛という目的のための手段であった。

 

賈后が皇太子司馬遹を廃そうとした際、

張華は反対している。

賈后が計画に張華を巻き込まなかった時点で、

賈后は冷静に張華は計画に乗ってこないと判断していた。

 

賈后の判断軸はあくまで自己防衛である。