歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

西晋 滅亡の年はいつなのか。

西晋には、

事実上の滅亡やら、完全な滅亡やらいろいろな表現がある。

 

後に司馬睿が東晋を建国するのでさらにややこしい。

西晋の終止符がわかりにくい。

司馬睿は、建国したつもりはなく、晋を受け継いでいるので、

新しい国を作ったことにはならない。

当然、司馬睿をはじめ自分たちの晋に東も西もないのである。

 

 

 

 

西晋滅亡のタイミングは5つ

 さて、西晋の末期、事実上やら実際やら含めて、滅亡のタイミングは、下記に複数挙げられる。 

 

311年4月

故司馬越軍、石勒に大虐殺される。

司馬越の病死、その後の故司馬越軍が石勒に襲撃を受け、

大惨殺されたタイミング。

 

 

311年6月

 

西晋の帝都洛陽が匈奴漢により陥落され、皇帝懐帝捕虜となる。

匈奴漢・皇帝劉聡の命令を受け、

劉曜・王弥・石勒が洛陽を攻撃、陥落させる。

西晋皇帝懐帝(司馬熾)は捕虜となり、

匈奴漢の本拠地平陽に連れ去られる。

これが狭義の永嘉の乱である。

 

 

313年1月

 

西晋皇帝懐帝は、

匈奴漢皇帝劉聡により殺害される。

劉聡は懐帝を有効活用しようと試みたが、活用しきれず、

見切りをつけたうえでの処置であった。

懐帝は、劉聡により散々侮辱、いわばマウンティングをされた上での

死であった。

お酌に回らされたり、奴隷扱いであった。

 

316年11月

 

西晋愍帝、匈奴漢に降伏する。

 

のちの愍帝司馬鄴は、311年12月ごろから活動を始めている。

311年6月に洛陽が落ち、懐帝が連れ去られたのち、

西晋の残党は、後継者を探した。

その白羽の矢が当たったのが、この司馬鄴である。

勝手に皇太弟に立てた。

なお、司馬鄴は懐帝の弟ではない。

司馬熾の兄呉王司馬晏の子である。つまり、

甥である。皇帝になる血筋・序列ではない。

それは名前を見ればわかる。「鄴」が名である。

皇帝になると、皇帝の名を避けなくてはならない。

忌み名である。この司馬鄴が、皇帝になったおかげで、

建業は、建康と改名した。

煩雑なことである。

晋が中華統一王朝を維持していれば、さらに鄴も改名する必要があった。

これほど大掛かりな変更が生じる名前を皇帝になる人物が

なることはない。

 

洛陽陥落、懐帝捕虜により、西晋の勢力は崩壊するが、

幷州の劉琨、その同盟者鮮卑拓跋部、

石勒の反乱などにより、西晋は瀕死の状態であるが、ぎりぎり持ち直す。

 

愍帝の勢力は、312年4月に一度は失われた長安を回復して割拠。

匈奴漢の皇帝劉聡が堕落したことで、愍帝はなお勢力を細々と保つ。

だが、抗しきれず、

316年11月愍帝、匈奴漢に降伏。

 

317年12月

 

西晋皇帝愍帝処刑さる。

約一年、愍帝を捕虜のまま生かしておいたが、

匈奴漢は活用の仕方が見つからなかった。

結局最後は愍帝も懐帝同様、奴隷同様の扱いをする。

お酌をさせ、酒宴の食器を洗わせ、厠の用の手伝いをさせる。

マウンティングをしたのち、愍帝を処刑した。

 

西晋滅亡のタイミングの結論

 

司馬越病死⇒軍勢滅亡311年4月

・懐帝 逮捕(洛陽陥落)311年6月

・懐帝 処刑 3131

・愍帝 逮捕(愍帝、降伏)31611

・愍帝 処刑 31712

 

5つのタイミングがある。

 

匈奴漢も中華の都市、洛陽や長安ですら保持し続けないので、

回復したりして、非常にややこしい。

 

何となく、西晋が滅亡しているというのは、

非常にやりにくい。

 

ということで、

私は西晋滅亡のタイミングは、

・懐帝 逮捕(洛陽陥落)

すなわち311年6月であると私は主張する。

 

洛陽の陥落、懐帝の逮捕が、西晋滅亡である。

西晋の実態がここで消滅する。

西晋皇帝懐帝が皇帝としての役割を果たせなくなる。

それ以後は残党である。

明の滅亡が崇禎帝の自殺1644年で

その後の南明はカウントしないのと一緒。

 

西晋の滅亡は、311年である。