西晋
●衛瓘のプロフィール ●蜀漢を滅ぼす成果を挙げた一人 ●衛瓘の異民族政策。 ●八王の乱、最初の勝者 ●衛瓘が土断法を提案した背景。 ●私有民という問題が発生する経緯。 ●万物を所有するはずの中華皇帝司馬炎は我慢する。 東晋から南北朝の時代において、 度々…
●魏の司馬昭と鮮卑拓跋力微の事実上の同盟 ・司馬昭のメリット ・拓跋力微のメリット。 ●司馬昭の子司馬炎と鮮卑拓跋力微の共存共栄 ●西晋皇帝となった司馬炎、鮮卑拓跋力微が目障りとなる。 ●参考図書: ● 三国時代末期。 いわゆる三国志の時代。 三つの国…
北魏。鮮卑拓跋部が創った国である。 この鮮卑拓跋部は、古の漠北の強国、匈奴の後継者である。 ●漢民族、因縁の相手匈奴 ●前漢高祖劉邦を屈服させた冒頓単于 ●匈奴を屈服させて真の中華皇帝となった前漢武帝 ●後漢期に匈奴の事実上の滅亡。 ●空白地の漠北に…
●陶侃は東晋を代表する名将。 羊祜、劉弘を継ぐ。
石勒とは何者か。 歴史に埋もれた英雄である。 ●石勒の実績は四つの史上初と、中華統一王朝を滅ぼすという歴史的快挙 ●中華史上の快挙である石勒が異民族である悲劇 この人物は、中華史上、最大の成り上がりを成し遂げた人物である。歴史の流れから考えると…
匈奴漢劉淵は司馬穎・司馬顒の系譜を継ぐ。 司馬越はこれらに対抗する。 この対立構図は八王の乱の初期からずっと変わっていない。 それは西晋末、五胡十六国時代にかけてずっと不変の構図となる。 ●賈后派と司馬穎派: ●北魏の華北統一は新しい時代の到来を…
++劉淵に匈奴独立の動機がない++ ++後漢末期の匈奴単于羌渠と同様に殺されかねない状況の劉淵++ 劉淵は親西晋、羌渠と同じ、親中華 ++やむなく自立する劉淵、促したのは左賢王劉宣の現実的な判断++ ++劉淵に匈奴独立の動機がない++ 劉淵のこ…
251年生まれの劉淵は、304年、すなわち劉淵53歳の時に、ずっと中華の中心中原にいたのを、鄙びた田舎の離石に移動して自立する。最晩年のこの大きな変動は個人の人生として幸せだろうか。そこまでして、部族を引き連れなければいけないものなのか。 ++劉宣…
●司馬保は、司馬越家の生き残り ●司馬保と司馬睿、対立。司馬睿の勝利 ●司馬保は、司馬越家の生き残り 司馬保は司馬越の四弟司馬模の子である。司馬馗家の一人であり、西晋最高権力者司馬越の血族である。司馬越は兄弟を大切にしたので、甥も同様だったであ…
●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 ●司馬越の後背地下邳を預かる司馬睿 ●司馬越の意向により建業の確保という使命を帯びる司馬睿 ――――――――――――――― ●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 司馬睿は、愍帝が匈奴漢に降伏して捕虜となった翌317年晋王となっている。…
この世の持ち主が存在しない異常事態: 飼い犬に手を咬まれた中華皇帝: 西晋東晋過渡期の311年ー318年、下記の重要事件が起きる。 ・司馬越病死⇒軍勢滅亡311年4月 ・懐帝 逮捕(洛陽陥落)311年6月 ・懐帝 処刑313年1月 ・愍帝 逮捕(愍帝、降伏)316年11月…
311年6月に西晋皇帝懐帝が、匈奴漢に捕らわれてから、 中華覇権争奪戦が始まる。 330年9月に石勒が皇帝となり、華北の覇者としての地位を確立するまで続く。 約20年の争乱である。 ①匈奴漢皇帝 劉聡=匈奴優先= ②石勒=異民族・漢人対等融合= ③西晋残党=…
西晋には、 事実上の滅亡やら、完全な滅亡やらいろいろな表現がある。 後に司馬睿が東晋を建国するのでさらにややこしい。 西晋の終止符がわかりにくい。 司馬睿は、建国したつもりはなく、晋を受け継いでいるので、 新しい国を作ったことにはならない。 当…
司馬炎はディオニュソス的な生き方を志向した皇帝である。 ディオニュソス的=快楽主義。
八王の乱は五連発の政変を指す。
司馬越の動きと石勒の動き。 地図から彼らの位置関係を見れば、 意図がわかる。 さらっと流してはいけない、司馬越と石勒の向かう先。
司馬越の行き先は明確である。 わかりやすく建業に向かった。 それを地図から紐解く。司馬越は石勒討伐でも、東海国に行くためでもない。 逃避行である。
司馬越が洛陽を離脱したが、その目的を軍勢の中身、実態から探る。 洛陽を空っぽにまでして出発したこの軍勢の実態とは?
司馬越は、当時の教養ある貴族の一人である。真面目に旧司馬穎勢力と戦い、真面目に異民族と戦うも、身内の懐帝に裏切られた。甘い。さらに、生まれながらの富裕層だからこそ、スパッと諦める司馬越。行き先は、江南・建業だった。
司馬越 VS 西晋懐帝 307年司馬越は、 中華の治安確保に時間を割いた。 が、懐帝に裏切られた。 307年12月丞相となる。 西晋においてこれは珍しい称号を使っている。 直近で丞相といえば、 魏の曹操、蜀漢の諸葛亮である。 両名とも丞相位に就いて、 文武の全…
懐帝の背信行為が最高権力者司馬越を 激怒させる。それは、司馬越自身の甘さと、懐帝の切羽詰まった事情が引き起こしたものだった。
307年初頭における、 司馬越兄弟を中心とした 西晋懐帝勢力と、その敵対勢力について。
八王の乱は難しくはない。 漢民族文明の問題点が全て表出した乱、それが八王の乱である。 表面的な言葉に囚われず、 一つ一つの意味と事象を考えていくと 非常に興味深いものになる。
恵帝がいない今、争乱は泥沼へ。 懐帝が泥沼の八王の乱延長戦を引き起こした。 司馬越は恵帝がいて乱が収まればそれでよかったのだ。
恵帝暗殺の司馬熾の動機とは? 司馬熾は身の危険を感じずにはいられないほど危うい立場であった。
ピックアップされない事実。 後の懐帝、司馬熾は相当に出自が低い。 忘れ去られた王、司馬熾が司馬顒によって政争の道具とされた結果、身に危険が及ぶ。
恵帝毒殺の真犯人は司馬熾、後の懐帝である。
西晋の内乱と異民族の自立。 王浚の自立。 異民族は匈奴、烏桓、鮮卑の登場。
304年が西晋の命運を決める。 西晋の事実上の崩壊、 一方で匈奴を始めとした異民族の 分離活動が活発化する。
306年11月西晋恵帝が麦餅を食べてあたり死亡した。こんなマンガのようなことがあり得るのだろうか。 よく司馬越の仕業と疑われる。 しかし、恵帝が死ぬことで本当にメリットがあった人物がほかにいる。