歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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②匈奴漢の祖劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~曹操が始めた匈奴単于人質策。左賢王は曹操の代理人~

 

「劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎①」において、

劉淵の父劉豹と祖父於夫羅の親子関係に大きな疑惑があることを説明した。

 

 

ここでは、まず劉豹の先々代の「単于」で「父」とされる於夫羅と、

先代の「単于」の呼廚泉の事情を探り、

どのようにして劉淵の父劉豹に至るのかを明確にしたい。

 

 

 

●於夫羅と呼廚泉の立場

 

 

於夫羅は晩年曹操の庇護の下にあった。

 

それは父羌渠が匈奴の身内から殺害されたことに発端がある。

羌渠は匈奴単于として後漢に協力的であった。

 

 

184年に始まるので黄巾の乱に関して、

積極的に後漢の援兵要請に応じ、

羌渠は戦った。しかしながら、それに不満を覚えた匈奴内部から

殺害される。

 

子の於夫羅はその無道を訴え、後漢の帝都洛陽に出向く。しかし、

時は黄巾の乱、および宦官の害、袁紹・袁術らの宦官排撃など

後漢は混乱の極みにあった。

 

於夫羅の訴えは聞き届けられず、

後漢のために戦った父羌渠の遺志は報われず、

於夫羅も放置された。

 

匈奴本国は別家に単于位を奪われ、

於夫羅は匈奴の本国に帰ることすらできなかった。

 

後漢末期の群雄争乱の中で、

於夫羅も戦ったり、袁術に助力したりするも、

最終的には曹操に帰順した。

 

於夫羅は失意のまま195年に死去する。

 

あとは弟の呼廚泉が継いだ。

 

弟の呼廚泉は、曹操に対して、

202年に平陽で反乱を起こす。

袁紹残党の高幹らと手を結んで曹操に反するも、鎮圧される。

 

平陽は後の匈奴漢の本拠地となる。

平陽は後漢末から西晋末まで、

匈奴にとって重要な地であることがここからもわかる。

 

呼廚泉は中華内地の、曹操の本拠地鄴に留め置かれる。

匈奴の本拠は、於夫羅・呼廚泉兄弟の叔父、去卑が統括することになる。

 

ここに、匈奴の事実上の単于が中華内地に留め置かれ、

人質扱いとされ、

匈奴の兵を中華の覇者が活用するという構図が出来上がる。

 

これは304年に劉淵が司馬穎のもとからうまく逃げ出すまで続く。

 

呼廚泉は、曹操の魏王即位、漢魏革命の曹丕即位式、

魏晋革命時の司馬炎即位式に

出席している。

 

中華の覇者にとって、異民族の代表格、匈奴を従わせているというのは、

正統性の証、皇帝の証のひとつであるからだ。

 

 

●曹操の匈奴統治政策。馬は覇業のキーファクター

 

父羌渠は反漢の部族に殺害、於夫羅は漢に抑留、呼廚泉も同様に抑留。

 

羌渠殺害後、匈奴の本国は

須卜骨都侯単于を建てた。須卜部で、於夫羅たちの屠各種攣鞮部ではない。

匈奴の単于は、この攣鞮部から出すことになっているので、イレギュラーである。

慣例上そうなってきた。本来の匈奴の習俗としては、実力主義であるから、

大きな問題にはならない。

中華でこのようなことが起きれば、

僭称だ、偽帝だ、と騒がしくなるが、匈奴はこれでも問題はない。

須卜骨都侯単于はすぐに亡くなったがその後の単于は不明。

 

202年以降217年未満の間に、

於夫羅・呼廚泉兄弟の叔父、去卑が匈奴本国を統括するということになる。

 

反漢だった匈奴が、202年の呼廚泉の反乱などの過程で、

曹操に取り込まれたことを伺わせる。先の単于羌渠や於夫羅は見捨てられていたのだから、

反漢であるのもやむを得ない。

 

一方、

曹操は匈奴を五部に分けて統治するなど、積極的に関与した。

 

曹操の統治の成果として

匈奴は、曹操の覇業を大いに助けたはずである。

騎兵確保は後漢末の争乱期を勝ち切るのに非常に重要である。

 

207年に曹操が烏丸討伐に出かけたのは、後方の安全確保よりも、

騎兵確保の方が重要性は高い。

翌208年から曹操は南方攻略に出かける。

騎兵確保が完了して大規模遠征に踏み切ったのだ。

烏丸遠征では、馬を屠殺して食するほど食糧に困窮したという話がある。

しかし烏丸を攻略すると馬が手に入るわけである。

南方遠征への大きな機動力はこの烏丸遠征で確保できたのである。

その端緒となったのは、

烏丸遠征できる機動力の確保、すなわち匈奴の従属化である。

 

遠征するための機動力、馬の確実確保、それは匈奴を従属化したからこそ

可能となった。

そうなると、曹操に協力的な匈奴側の人物が確保できているということである。

それは、去卑の可能性が非常に高いと私は考える。

 

実権のない呼廚泉は単なる人質。

実権は曹操の代理人として去卑にする。

 

この構図を曹操は、202年の呼廚泉の反乱から、

徐々に曹操の最晩年にかけて確立していったと私は考える。

曹操が、呼廚泉を献帝のように傀儡として扱ったと考えれば、

わかりやすい。

献帝を傀儡として、

曹操自身が実権掌握をした構図と全く一緒だからである。

匈奴は曹操自身ではなく、曹操の代理人として

去卑を立てたということが相違点である。