歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

匈奴の単于が、漢人名の劉氏を名乗ること、その奇怪さ。 =③劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=

 

匈奴の単于が、漢人名の劉氏を名乗ること、その奇怪さ。 これに注目する。

 

●そもそも劉氏と誰が初めに名乗ったのか。

 

劉淵以降の系譜はみな劉氏だが、

その前の世代だと、劉氏を名乗っているのは、

劉豹と劉宣だけである。

 

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私がまず初めにおかしいなと感じたのはここなのだが、

劉宣が劉氏になっているのに対して、

兄と思われる呼廚泉はそのまま匈奴名のままである。

 

兄が改名しておらず、弟の劉宣だけが、改名するというのは

少々道理にかなっていない。

 

匈奴という民族の名前の名乗り方を変えるのに、

存命中の呼廚泉(事実上の単于)の了解なしにというのは

非常に考えにくい。

 

呼廚泉は277年を最後に正史から消えるが、

それまでは呼廚泉を抜きに劉氏を名乗るのは無茶がある。

 

もしくは呼廚泉とは別系統の権力が動き、

名前を与えたか。

 

いずれにしても、この劉氏改名は、匈奴単于家の意向とは違うところから

出ている。

 

最も辻褄の合う考え方は下記である。

 

結論から言うと、

劉豹が初めて劉氏と名乗ったのであれば、

劉宣がその子供としてその姓を継いだ、

そしてその子劉淵も同様に劉氏と称した、

と考えるのが最も妥当である。

 

劉宣は羌渠の子ではなく、劉豹の子で劉豹Bであり、

劉淵の父である、というのが

最も筋が通っている。

劉豹Aはその推定生年からすると。

240年から250年ぐらいには死んでいるだろうと推測される。

その20年前ぐらいから劉豹Bが生まれたとすると、

劉宣は308年に死んでいるので、ちょうど世代的にもマッチする。

 

劉豹は漢化した匈奴部族長であるので、白羽の矢が立ったことは

先に述べた。

これに連なることが重要なのである。

 

劉豹が劉氏に姓を変えたのは、存命中だったかもしれないし。

死後の後付けかもしれない。

 

死後ならば、劉宣が西晋から劉氏の西晋から姓をもらい、

父を死後追号として劉氏にした。

もしくは、

劉豹が存命中に後漢献帝からその功績を称え、

劉氏の姓を与えたか。

 

●劉豹は於夫羅の子ではない。

上記の理由から劉豹は於夫羅の子ではない。

年齢もそうだが、この劉氏という姓を名乗ることの意味からもそう考えられる。

 

そして、劉豹は、於夫羅や呼廚泉の系統であってもいけない。

なぜなら、彼らは胡名を名乗っているのに、

劉豹らが、漢人名、それも漢の皇帝の姓を名乗っていることの辻褄が合わないからだ。

劉豹は於夫羅たちとは別系統で、何らかの理由で漢、魏、西晋に選ばれたのだ。

 

劉豹は漢化した人物として中華王朝にとって

うってつけだったという話は先に述べた。

協力しただけで漢化というのは話を盛り過ぎている

気もするが、

一回従うだけでも漢化というのが中華王朝の考え方と

私は考える。

 

明あたりになると、

一度朝貢すれば、中華を認めたことになり、

中華王朝は附庸国扱いになる。

しかし、

朝貢しにきた方としてはちょっとした挨拶になる。

このロジックは少々難しいかもしれない。

この中華至上主義とも言える、中華王朝の上からの対処がスタンダードであることを考えると、

劉豹が劉氏と名乗るのは、大分厚遇しているのがわかる。

劉豹はただの附庸国の王としての扱いではないのは間違いないのである。

<つづく>

 

参考図書: 

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

 

 

西晉の武帝 司馬炎 (中国歴史人物選)

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