歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

戦国時代概説③次は斉の時代

戦国時代、魏の次は斉の時代、

である。

 


●魏の次は斉の時代である。

 

戦国時代が魏から斉へ主導権が移ったのは、

前342年の馬陵の戦いである。

 

これは歴史的に見て大きな事件である。

 

龐涓と孫臏の確執、

孫臏の身体的障害、

それに対する物語めいた復讐劇などが

ピックアップされるが、

この馬陵の戦いは

時代の変わり目であった。

 

ここから、

斉は前284年、

燕の楽毅により亡国寸前に追い込まれるまで、

中華の覇権国となる。

 

斉の勃興は、

馬陵の戦い以前から始まっていた。

 

そのきっかけは、

田氏一族の勃興である。

 

斉は古くからの国であるが、

田氏が戦国時代に乗っ取った。

それは前391年のことである。

馬陵の戦い時点では、

建国から49年しか経っていない、

まだまだ新興国であった。

 

●田乞 田氏の国取り

 

田氏の呂斉取りが始まったのは、

田乞の時代である。

 

田乞は、

税として収奪するときには小さい升を、

民に食料を与えるときには大きい升を使い、

人心を巧みに摑もうとした。

この時が呂斉取りの始まりである。

 

前489年に田乞が、

斉の国氏、高氏を滅ぼす。

その勢いで、斉公の廃替も実現。

 

●田恒(田恒) 姜斉を牛耳る。

 

前481年に

田恒(田常)が斉の簡公を殺し、

平公を擁立。

 

田恒は斉の実権を掌握。

春秋公羊伝ではこの年に麒麟を得たという記事で終わる。

 

ここから100年近く、

田氏は斉の実権を握る。

 

田氏が力を握る一方、

斉公の権限は縮小の一途。

 

斉の康公に至っては、前401年に

韓魏趙の三晋から攻撃を受け、捕虜となる。

そのまま周の洛邑に連行され、

三晋が諸侯となる材料とされる。

ここまで斉公の力は失墜していた。

 

●田和=斉太公、田斉の建国。

 

そして、田恒から

三代後の田和が前391年に斉の康公を追放、

自ら斉公を自称。

 

後世、斉の太公とされる。

(「太」は大元の意味。始まりの意味である。)

 

斉の康公が追放されたのは、

現在の山東省煙台市にある

芝罘島(シフウトウ)である。

中国最大の陸繋島として有名である。

陸繋島というのは、

砂州によって、大陸と島が陸続きになった島のことである。

 

例えば、日本でいうと、

函館や神奈川県の江ノ島がそれにあたる。

 

田和は、

前388年(前386年)に周王に認められ、

正式に諸侯となる。

前379年に斉康公は死去。

斉の太公田和は前385年に死去。

 

●田剡・田午兄弟争乱。田午が勝ち、斉桓公となる。

 

この後、田和の子田剡(デンエン)が継ぐも、

弟の田午が弑逆。

田午が斉の桓公となる。

 

この辺りの兄弟争いは、

史記に記述はなく、戦国魏の竹書紀年のみの記述である。

竹書紀年は漢代には散逸していた。

 

だから史記には記述がない。

竹書紀年は、

戦国魏の恵王の墓から、西晋時代の279年に発掘された。

 

斉の桓公田午は、

前400年生まれ、前375年に兄を弑逆し即位、

前357年に死去する。

この辺りまで斉は内部での争いが続いている。

対外政策を行うよりも、

他国から攻め込まれることの方が多い時期である。

 

前368年に斉は趙に攻め込まれ、長城まで迫られるなど、

斉は劣勢である。

 

●斉威王(威宣王)の登場

 

ようやく国内が落ち着きつつあった斉。

前356年に威王(実は威宣王)が即位する。

威宣王はその治世の間に、

王を称すので、

即位時点では侯である。

 

当時は魏の絶世期に当たる。

魏の君主は、のちの恵王(実は恵成王)。

 

威宣王は、

稷下の学士に代表されるような多彩な人材採用を進め、

国力を強化する。

対外政策も積極的に行う。

ようやく斉が攻めに転じる。

 

〈覇権国魏を失墜させる。〉

 

前354年から前353年にかけて、

魏が趙を攻める。

趙の都邯鄲を攻略するまでに至る。

 

趙は斉へ救援要請をし、威宣王は受諾。

桂陵の戦いにて、斉は魏を破る。

兵法三十六計の二つ目、

「囲魏救趙」である。

 

これで飛ぶ鳥を落とす勢い魏に翳りが見え始める。

 

魏は東に斉、西に秦という

二つの新興国に押されるようになる、

 

魏の西方にある秦では商鞅の変法が始まり、

国力が急速に伸び始める。

 

そうした中にも関わらず、

前351年、魏の恵王(まだ侯)は

蓬沢の会にて夏王を称す。

 

周王封建諸侯で始めて、王を称した。

周王と傘下の諸侯を集めた上での会合であった。

魏は覇権に翳りが見えてきたにも関わらず、

この天子の式典と言える、

蓬沢の会を強行した。

 

これで他の諸侯からの反発を買う。

西からは秦の侵攻が激化する。

 

こうした情勢の中、

前342年の馬陵の戦いで、

斉が魏を破る。

魏の恵成王は、

翌年からの称元を控えての大敗であった。

この戦いで太子を失っていた。

 

称元とは、魏王元年という言い方で、

年を数えることを始めるものである。

これは、世界の時を牛耳る意味を持ち、

天下の支配者として名乗りあげることを意味する。

 

この実施を馬陵の戦いの大敗で、

魏は実施できなくなった。

 

〈斉の威宣王、王を称する。〉

 

のち、前339年に威宣王は、王を称す。

この時威宣王は、魏の恵成王を傘下として、王を称する。

 

 

この威宣王から子の湣宣王の時代が、

斉の最盛期である。

 

魏から覇権を奪った。

 

また、

魏が手がけた中央集権化は各国も取り入れたが、

斉は最も成果が上がった。

 

それは斉は古から続く古い国だが、

田氏が前391年に乗っ取ったので

実は新しい国である。

 

威宣王という力の強い君主のもと、

ようやくまとまったのが斉である。

新しい改革は圧倒的に進めやすかった。

 

国が豊かなので、多様な人材を集める余力もあり、

他国を上回る状況を作り出したのが

この当時の斉である。

 

こうして、戦国時代は斉の時代へと移った。

 

●斉の湣王(湣宣王)、絶頂と失墜。

 

そしてこの有り余った国力を使って、

威宣王の子、湣王(実は湣宣王)のとき、

前286年に宋を滅ぼす。

 

これにより戦国時代各国の

バランスオブパワーが崩壊。

突出しつつある斉を危険視した、

斉以外の燕、韓、魏、趙、秦、楚の6国が連衡(連横)成立。

各国が前284年に斉を攻撃。

燕の楽毅が斉中心部を攻め、亡国寸前まで追い込む。

 

前280年に田単の活躍で、

斉の旧領を回復する。

だが前284年に攻撃を受けてから、

丸4年間、斉のほとんどのエリアを他国に占拠されるという

状況が続いてしまっていた。

 

斉は中原での覇権を失う。

 

この間、西方の秦は

さらに国力を強化し、

戦国時代の中心は秦に移る。

 

この斉のゴタゴタの間に、

秦は国力を増強し、

漢中、蜀、そして楚の本拠湖北と、

湖南を手に入れていた。