歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

姚弋仲は石虎死後も後趙に義理立てする。

 姚弋仲は教養がないと漢人から差別される羌族の異民族だが、

石虎が死んだ後も、後趙に義理立てする。

 

石虎死去前後の姚弋仲の動きを見ていきたい。

●結果的に対外的には落ち着いていた後趙石虎時代


石虎は349年に最後は皇帝として世を去るが、

この15年間は、

後趙の領土は

ある意味安定していた。

 

遼東の鮮卑慕容部との攻防、

涼州の前涼との攻防、

東晋の北伐排撃、

等各所で攻防はあったが、それぞれ一進一退であった。

そのため大きな動きはなかった。

 

石虎一族の中では残虐な行為はあったようだが、

八王の乱以降、久々の落ち着いた時代ではなかったか。

 

これに寄与したのが、

異民族の羌族姚弋仲であるのは歴史の皮肉であり、面白さである。

 

剛直で決して阿らず、かつ戦いも強い姚弋仲は、

石虎を馬があったのだ。

 

石虎が暴虐だったというのは後世の異民族差別から

誇張されているので差っ引いて考えると、

石虎と姚弋仲は同じ人種と言える。

 

石虎も、剛直で阿らず、石勒に必死で仕え、

武功を挙げ、勇名を轟かせた人物である。

石勒麾下の軍事トップとして華北統一を果たしている。

 

姚弋仲は石虎よりも15歳年上である。

異民族気質の剛直な姚弋仲は石虎にとっての

精神安定剤でもあった。

 

●異民族の癖、後継者争いは清の雍正帝まで続く。

 

石虎の晩年に反乱が起きる。

 

理由は、石虎の後継者問題にある。

 

少し背景を説明したい。

 

石虎は異民族の文化を引き継いだ。

だが、異民族の気質を残すと、

後継者問題が大きい。

弱肉強食で後継者を決めることになるわけで、

結局宗族同士争うのだ。

 

これは異民族にルーツを持つ王朝であれば、

中華の歴史上常にそうである。

 

後のモンゴル帝国もそうである。

チンギスハーンの長男ジョチと次男チャガタイは不仲で、

これを取り持つという視点で三男のオゴテイが後継となった。

 

こうした異民族の悪い癖が解消されたのは、

清の雍正帝が太子密建という手法を確立させるまで待たなくてはならない。

 

清を建国した満州族は当然異民族である。

 

北京の紫禁城、皇帝の玉座の真上にある、

「正大光明」という額の裏に、

皇帝直筆で後継者の名前が書かれた書を隠すというものである。

 

雍正帝がこの制度を考えたのは、

自身が父康熙帝の後継者の座を暗闘して奪ったからである。

 

勤勉でストイックで何にでも自身の思い通りに進めたい雍正帝は、

自身の子孫に同じようなことはさせたくないと思ったからである。

 

●石虎死去前後の後継者争い

 

石虎の話に戻すと、

石虎は子供達を信用できなくなった。

 

石虎の子たちからすれば、

苛烈な父石虎が信用できなくて兄弟相争うのだが、

つまり親子間に強い不信感があることが原因だ。

 

石虎は子を殺し、最終的には10歳に満たない、

石世を後継に当てた。348年のことである。

 

姚弋仲は石虎に苦言を呈している。

この戦乱の世に、幼子で国がまとまるかと。

 

なお、石虎の治世で、

石虎に諫言する歴史が残っているのは、

姚弋仲だけである。

 

●処刑した廃太子石宣残党の反乱

 

さて反乱の話に戻ると、

梁犢(りょうこて)という人物が関中で反乱を起こす。

 

348年に皇太子石宣は石虎に対する反逆の疑いで殺された。

その石宣所属の兵士を涼州に放逐しようとした。

 

その兵士の数は数万と呼ばれる。

 

それが関中の西の端、雍城で反乱を起こす。

雍城から西に山を越えれば涼州であった。


この指導者が梁犢である。彼は石宣の側近であった。

 

349年には滎陽まで侵入を許す。

軍勢は10万人に達していた。

滎陽から北へ黄河を渡れば、

石虎後趙の河北へ侵入することとなり、

石虎も強い焦りを感じていた。

 

●姚弋仲に助けを求める石虎

 

そこで、養子の石斌と姚弋仲に討伐を命じる。

既に石虎は重病で床に臥せっており、

姚弋仲は参内したものの、接見が叶わなかった。

 

代わりに酒食が振舞われたが、

姚弋仲は激怒。

賊を討てというので呼ばれたのに、酒食を食べろとはどういうことか。

出征したからにはどうなるかわからず、

一目会うことができれば、戦で死んでも恨むことはない、と言い放つ。

 

石虎は、

剛直で、だからこそ義に篤い姚弋仲の性格を思い出したか、

病をおして、姚弋仲と接見する。

 

そして、

姚弋仲を使持節、侍中、征西大将軍に任じて、

鎧と馬を与える。

 

姚弋仲は勇躍、鄴から南下し、

反乱軍を討滅する。

 

姚弋仲ら羌族は、死の間際まで

石虎に義理を果たした。

 

この功績により、

「剣履上殿」「入朝不趨」までを許される。

剣を帯びて参内して良い、

参内するときに小走りしなくて良い、という特典で、

人臣最高位の条件のそれぞれ一要件である。

ただし「謁讚不名」は許されなかった。

皇帝が名で呼ばず、敬称で呼ぶというものである。

 

なお、この時の大将姚弋仲の反乱討伐軍に

従軍していたのが、氐族の苻洪である。

後趙において、姚弋仲の方が格が上なのがわかる。

 

姚弋仲が乱を鎮圧して、

鄴へ戻る途中で、石虎は崩御した。

姚弋仲は、今度は石虎の子供達の後継者争いに巻き込まれる。

 

●石虎一族の相克により冉閔が台頭する。

 

 

349年4月、石虎崩御。10歳の石世が後を継ぐ。

石虎の死の間際、

石世の実母で皇后の劉氏がそのどさくさに紛れて

実権を握る。

この劉氏は、前趙皇帝劉曜の娘である。

石虎は本当は石遵に後事を託したかったが、

劉皇后が阻んだのである。

 

石虎の子で

当時洛陽から黄河を北に渡河した先の温県(司馬懿の故郷)にいた石遵が、

反乱討伐成功後の姚弋仲と苻洪の軍勢と出会う。

姚弋仲と苻洪は石遵を担いで、決起。

姚弋仲と苻洪にとって、裏切った旧主筋の皇后劉氏が権力を握って、

冷遇、もしくは仕返しをされるのを嫌ったか。

10歳の皇帝ではこれらを取りまとめる力はない。

 

 

石遵はこの話に乗り、石虎の養子石閔(のちの冉閔)も取り込んで、

鄴へ攻め入る。石世を弑逆し、皇帝となる。

 

冉閔はこの後、苻洪を石遵に讒言。

苻洪はこれに憤り出奔。

 

さらに冉閔は、石遵は皇帝となった暁には、

皇太子になれるという約束があったのに、そうならなかったことに不満を覚え、

反乱。

 

石鑒を担いで、冉閔は石遵を殺害。

冉閔は実権を得る。

 

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●姚弋仲は石虎の子擁して冉閔に対抗するも敗れる。

 

350年、

姚弋仲は石虎の子・石祗を擁して、襄国に拠る。

鄴の冉閔は石鑒も殺して、自身が天王となる。魏を建国する。

 

冉閔は石祗の襄国を攻撃、

姚弋仲は病に臥せっていたため、

子の姚襄に命じて、襄国救援に向かわせる。

 

鮮卑慕容部の前燕からの救援もあり、

姚襄は見事冉閔を撤退させる。

だが、

父姚弋仲からは冉閔を捕縛することを命令されており

果たせなかったため、杖で100叩きの罰を受ける。

 

しかしのちに、

352年4月に襄国の石祗は臣下の裏切りに遭い、死去。

ここで事実上後趙は滅亡するが、このような終わり方なので、

この後数年間各地に後趙残党が存在することになる。

 

姚弋仲は後趙が滅亡したことで、

東晋に投降する。

 

と言っても、

姚弋仲のいる河北まで東晋は勢力を伸ばせていないため、

実態は同盟である。

 

同352年年、姚弋仲は死去。

子の姚襄が後を継ぐ。