歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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三国志における人口対策は「人さらい」

~人口対策は人をさらってくることだった~



いわゆる中国と言われる地域は、この時代人口が過酷なぐらい減少した。

 

三国時代には、

人口が8分の1に減少。
凄惨と言われるドイツ三十年戦争でも、
人口が3分の2、もしくは3分の1
減るところまでだった。

この683万人という人口は、三国時代の後期のもの。

三国時代が始まったころは、このころよりももっと少なかったわけだ。

 

人口は国力、人口を増やすことが、ほかの二国に勝つことにつながる。

人口をどう増やすか、喫緊の課題。

 

岡田英弘氏の著作にも下記の記述がある。

「農地というものは、戦乱か何かで耕作を一年休めば、復旧には数年を要するものである。

それなのに、一八四年の黄巾の乱の始まりから、三国時代に入るまで、

何十年も戦乱がやまなかったのだから、農業が復旧するひまがなく、

シナは深刻な食糧不足が続いて人々はばたばたと餓死し、

ことに華北の平原地帯ではなはだしかった。」
(岡田英弘氏著・岡田英弘著作集Ⅳ・343P

 

※岡田氏は230年代には魏の人口は250万程度、

呉は150万程度、蜀は90万から100万程度と記載している。

三国鼎立が安定した時期の資料と書いてあるが出典は明確ではない。

 

 

農地は荒れている、人がまばらになり、生産も追いつかない。

どうするか。

いや、人がいた。

辺境に。

 

異民族を連れてこればいい。

元々戦いに長けているのだから、

戦争に使おう。

そもそも、元々中原に住んでいた人も、

辺境に逃げている。

 

遠いけど、辺境を制圧して、

自分の領地に連れてこよう。

 

そこで思い出されるのが、

曹操の烏桓討伐。

 

206年、曹操は遼西の北にいる

烏桓を攻めた。

袁尚(袁紹の子)を攻め立てたところ、

烏桓まで逃げたことがきっかけ。

過酷な遠征で食料も不足し、

馬まで捌いて食した。

 

 

烏桓討伐を完遂した曹操は、

烏桓を鄴に連れ帰って住まわせた。

後漢書によると、捕虜20余万人を得たとある。

(建安十二年、曹操自征烏桓、大破蹋頓於柳城、斬之、首虜二十餘萬人)

烏桓の本拠地・柳城は現在の遼寧省朝陽市。旧満州ですね。

(ちなみにこの柳城は、唐の安禄山の出身地でもある。)


柳城



これで馬も確保し、騎兵の練度が高い兵も確保した。

人口も増やすことができた。

 

烏桓は、元々服従・反複を繰り返してきた民族。

前漢の時代には、護烏桓校尉に従って匈奴と戦ったり、

交易したりしていた。シナが弱体化すると

攻め入って略奪した。

 

「夷を以て夷を制す」で、

長らく漢は烏桓を利用し、匈奴と戦ってきた。

 

それを曹操はベンチマークした。

 

蜀と呉はどうだったか。

 

思い出されるのは、二つのエピソード。

 

呉の孫権は、

今の台湾に出兵したが疫病にやられ、

兵数が10分の1になって戻ってきたという失敗。

 

(また孫権は山越族などの異民族の侵略に度々悩まされている)

 

蜀の諸葛孔明は、南征を行い、後顧の憂いをたったという話。

ああ、あれは人口対策かと。

 

人口は当然だが、自然にはすぐに増えない。

年月が必要。しかしすぐに戦争をしなくてはならない。

ということで異民族をさらってきて戦争をさせようというわけだ。

 

それにまずうまくいったのが曹操。

その次は諸葛孔明で、

孫権は失敗した。

三国志関連の書籍を読んでいるとチラチラと

表れるこのエピソードは、実は人口対策であった。

 

諸葛孔明は、この南征で、滇池(てんち。海抜1886M。成都は海抜550M)やミャンマーの北部まで行っている。

孔明 南征 


今でも明らかに民族が異なる。

ここで「七擒七縦」(出典は『漢晋春秋』。蜀漢正統論なので、実態は不明。)をやってのけ、

兵力の安定供給を確保した。

先日のNHKで放送されていたが、今でも孟獲を祭っている人たちは、

諸葛孔明をあがめている。

 

かなりの山岳地帯であり、

兵士も強かった。

諸葛孔明の北伐に参加した。

基本、蜀兵は強い。諸葛孔明の統治がうまくいっていたというのもあるのだろうが、

この南蛮兵の参加も大きい。

 

 

異民族とは言うけれども、

何をもって異民族というのか。

習俗の違いを指すのであろう。人は多分変わらない。