後漢は孝廉が採用の基準。
儒教的概念から、孝行などができるかがポイント。
後漢末で変わった。
それは曹操のせい。
曹操が袁紹を官渡の戦いで破ってから変わった。
曹操は孫子に注釈をつけるような人物。
軍事にも精通していた。
対して袁紹は名族の出身。
軍事などに明るいわけがない。
軍事職は、上位の官職ではなかった。
そもそも儒教的概念では、軍事は軽視されていた。
同じ勢力、兵力で戦ったら、
袁紹が曹操に勝てるわけがなかった。
曹操は才能重視の採用をした。
同様のことを行なったのが
劉邦だ。
兄嫁に通じたものでも能力があれば採用する。
劉邦が、張良と並び称される陳平を採用した故事である。
これが劉邦・曹操両者のスタンスであった。
魏になると、
これが厳しすぎて、
成果が上がらなければ、
刑罰・左遷などが行われた。
それを嫌ったのが魏末である。
果たして、
才能と人格はどう捉えればいいのか。
それが鍾会の才性四本論だ。
傅嘏(フカ)は、同じものだと主張した。
現実主義でバランス感覚のあるフカらしい主張だ。
政治家と言える。
鍾会は「合」と論じた。
合わさったもの。
これは才能があれば人格もたかい高いとも言えるし、
人格があれば才能があるとも言える、
論じ方だ。
自他共に認める、鍾会自身の才能を、
人格にも昇華させたいという鍾会の意思が現れていると感じるのは、
うがった見方過ぎるだろうか。
李豊は、「異」と論じた。
これは、人格がある、才能があるというものは全く別のものという
考え方ではないだろうか。
人格がある=A
才能がある=B
として、
①Aのみ
②Bのみ
③AとBの両方
という三パターンあるということではないか。
現代にも通じる難しい問題だ。
人格があれば、才能もあると考えるか。
才能があれば、人格も高いと考えるか。
両者を全く別のものと考えるか。
才能と人格を別々に考えること自体がおかしい、
両者合一のもと評価判断すべしと考えるか。
それとも、才能と人格を比較してかんがえること自体が
おかしいと考えるか。
そう考えると、
自身の才能に自信があった鍾会は、
人格が付いてくる、つまり徳が備わっているということになる。
すなわち、才能がある=徳が高い、
つまり皇帝の資格ありとも考えられなくもない。
それが蜀漢での謀反につながったか。
採用は、才能でするか、人格でするか。