歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

姜維は何故沓中に駐屯していたのか。 姜維③

蜀漢が滅びた原因は何か。

結論として、
直接の原因は、
大将軍姜維が沓中に駐屯したことだ。

ここは、岐山の北西、
天水の西、
蘭州の南西で、
当時の蜀漢領の最前線である。

成都から最も遠い場所に当たる。

現在の甘南チベット族自治州テウォ県にあたる。
現在でも相当な田舎である。
チベットの人たちが住むだけあって、乾燥した高山帯である。
緑が少なく、乾燥した土が多く見える土地だ。

ここは、姜維が254年の姜維第二次北伐の際に、
魏から獲得した領地である。

周囲は魏領に囲まれ、
背後の山岳地帯を通らないと、蜀漢本領には戻れない。
蜀漢から見ても、相当な遠隔地である
命を狙われている可能性すらある姜維にとっては
安全だったのかもしれない。

262年秋候和の戦いにおいて、
姜維は鄧艾に敗れた。
そのまま姜維は沓中に駐屯した。
事実上姜維は蜀漢本土に戻ることができなくなったともいえる。

このまま姜維が越冬したことを、鍾会は把握していただろう。

それで
263年5月に蜀漢討伐のための動員勅令が発せられる。
8月には洛陽を進発する。

沓中の姜維を、都督隴右諸軍事の鄧艾が襲い、
姜維の退路である武都郡を雍州刺史諸葛緒が攻撃、
そして漢中を都督雍涼州諸軍事で征蜀の総大将鍾会が10万の兵で総攻撃。

そもそもなぜ姜維は沓中に駐屯することになったのか。

宦官で中常侍の
黄皓とのいさかいという話がある。

尚書令の陳祇の死後、
黄皓が力を持ったというのはよく言われる話だ。

ただ、元々黄皓は奉職していたわけで、最低でも30年は
宮仕えをしていたようだ。

ということは、
姜維の前までの録尚書事や
陳祇までの尚書令は、黄皓を抑えていたということになるが、
何か唐突感がある。

黄皓を調べると、
諸葛瞻・董厥が同調する、交流をするといった記述が出てくる。

董厥は陳祇の後を継いで尚書令になった人物である。
また、諸葛瞻・董厥の両名は、261年に姜維が平尚書事にした人物である。

258年に姜維は成都に戻っている。
北伐反対論が盛んになったのを抑えに行った。

その後、姜維は関羽や張飛など建国の元勲を、列侯した。

武人の列侯で、北伐論の復活を期待したのであろう。
しかし果たせなかった。

録尚書事でありながら、輿論を味方につけられない姜維は、
考えた。

そこで、私は姜維が北伐論の復活を掛けて、諸葛瞻を抜擢したのだと思われる。
董厥は間違いなく北伐反対。
北伐を行った諸葛丞相の息子、諸葛瞻を、
録尚書事の一つ下位の平尚書事に抜擢することで、
北伐論の回帰、場合によっては諸葛瞻の支援すら期待した。

しかし、諸葛瞻は北伐反対に回った。
姜維の狙いは、全く外れたのである。
全く根回しをしていなかったのだろう。

諸葛瞻・董厥からすれば、
姜維の北伐推進を押さえられないからこそ、
宦官の黄皓を頼ったのであろう。

元はと言えば、
北伐は皇帝の意志である。

蒋琬は皇帝の意志に忠実であった。
何とかして北伐を実施しようとしたが、
費禕の反対で果たせなかった。

蒋琬は。
漢水沿いに東に攻めることを実行しようともした。だが、
諸将反対と蒋琬自身の病気もあり、状況は混迷しかけた。
皇帝が東征を取りやめることを命令し、
取りやめとなった。

これを諸葛瞻と董厥は期待したのではないか。

北伐を推進したい姜維と、
北伐を止めさせたい諸葛瞻と董厥。
そこに黄皓も抱き込まれる。

ここにおける皇帝の意志は不明確だ。

しかしながら、
姜維が黄皓を皇帝に弾劾したところ、
却って皇帝が黄皓に対して、姜維に謝罪をさせている。

これで危険を感じた姜維は、北へ去り、
候和の戦いを起こす。
鄧艾に敗れ、そのまま沓中に駐屯したという流れだ。

皇帝は悪気はなかったのだろう。
ここまで対立が明確になっているとは知らなかった。

諸葛瞻や董厥、黄皓の話は聞いているはず。
姜維の考えも聞いているはず。

そのうえで、黄皓に対して姜維に謝罪をさせるというところを見ると、
皇帝は、大将軍・録尚書事の
姜維を尊重していることになる。

にもかかわらず、姜維が北へ去ったというのは、
職責放棄と見られても仕方がないであろう。

諸葛瞻らが、姜維を解任して、閻宇に大将軍を替えようとしていたという状況もあった。

姜維の職責放棄と、
諸葛瞻らが執拗に姜維を追い詰めた、宦官を巻き込むまでの権力闘争をした、
ということが姜維の沓中駐屯という異常な状況を生んだ。