姜維
~姜維駐屯沓中はかなり広い範囲を指す~ 「中国歴史地図集」にて、沓中は 白龍江沿いの中流辺りに記載されている。 沓中は調べてみると、 現在の甘粛省甘南チベット族自治州迭部県(テウォケン)に当たるという。 何かしっくりこない。 峡谷の合間にわざわ…
姜維北伐は、諸葛亮の北伐のイメージが強いためか、 同じようなルートを使った印象がある。 実は、同じルートはほとんど使っていない。 姜維の北伐は6回行われた。 一方、諸葛亮の北伐は5回行われた。 諸葛亮北伐は、 いずれも、秦嶺山脈を通過するルートで…
姜維と諸葛瞻以外、 まともに戦っていないことが大きい。 つまり各城主とも、徹底抗戦せずに、 降伏しているのである。 これは、何故だろうか。 例えば、劉備の入蜀の際には、 劉璋サイドの各城主が籠城して抗戦している。 にも関わらず、 何故降伏が多かっ…
魏を討伐することで、蜀漢をまとめた。 政治家諸葛亮の本領発揮である。 このバランス感覚が諸葛丞相らしい。 荊州は捨てて、 魏に立ち向かう。 これを国策にすることでまとめた。 自身の出身地でもある荊州を捨てられたのは大きい。 かと言って、 諸葛亮は…
そもそも、 蜀漢内において、北伐の是非が論争されたことが対立の原因である。 北伐がまず前提となったのはいつか。 やはりそれは諸葛亮による。 222年に建国された蜀漢。 自身は、漢と称する。 後漢献帝による曹丕への禅譲を認めず、 曹丕の弑逆によって、…
姜維の北伐五年連続五連戦にはそれぞれ理由がある。 やたらに攻めたわけではない。 【姜維の北伐6回の軌跡】-------------------------------------------------------------- ①253年 南安攻撃 →呉の諸葛恪、合肥新城の戦い ②254年6月 狄道攻撃 →狄道に内通…
姜維は何故北辺に逃亡するまで諸葛瞻らに追い詰められたか。 そもそも、諸葛瞻と董厥はなぜそこまで北伐に反対をしたのだろうか。 この蜀漢という国は、 非常に人気が高い。 高いからこそ、我々のそうあってほしいという思いが、 見えなくする部分がたくさ…
蜀漢が滅びた原因は何か。 結論として、 直接の原因は、 大将軍姜維が沓中に駐屯したことだ。 ここは、岐山の北西、 天水の西、 蘭州の南西で、 当時の蜀漢領の最前線である。 成都から最も遠い場所に当たる。 現在の甘南チベット族自治州テウォ県にあたる。…
諸葛亮の死後、 蒋琬は何度も北伐を検討していた。 病床に伏すまでは、漢中に駐屯していた。 費禕は、北伐に前向きではなかったエピソードが多い。 例えば、姜維が北伐の実施を建言した時も、 我々は諸葛丞相に及ばない。丞相ができなかったことを、 丞相に…
蜀漢の最高権力は、 丞相・益州刺史・録尚書事の兼任で確立。 蜀漢の最高権力者は、北伐を常に漢中から伺うので、 成都にあって後方を取り仕切るのは尚書令となる。 最高権力者+尚書令のコンビが誰になるのかが重要。 ・官職は空席でも良い。 ・録尚書事は2…