歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

魏の蜀漢討伐に関する、魏漢陣営の思惑

司馬昭 王莽への道 唯一の救いの手段
皇帝弑逆ゆえ禅譲しか道がなくなった。
中途半端に終われば、司馬昭および司馬一族は、
梁冀・董卓のように滅びるのである。
禅譲・禅代を進めるには、際立った功績が必要。
魏の正統性を真っ向否定する蜀漢の討伐が本来は良い。
しかしリスクが高い。
賛成する者も鍾会しかいなかった。
いきなりうまくいくイメージはないが、やる他なかった。
漢中まで取れれば御の字。
鍾会自身は才を誇り、他を侮る人物。
扱いにくいが、周辺を司馬氏与党で固め、情勢によって、
司馬昭自身も長安、場合によっては漢中まで出向くつもりである。

鍾会 
自身を士会に任じる鍾会。
手段を選ばず、兄を上回る家を立ち上げたい。
そして、徐々に名族で占められつつある高位を自身も占めたい。

→漢中制圧は鍾会の功績だが、
鄧艾がそれ以上の功績・蜀漢皇帝の降伏という快挙をやってのけてしまった。これで歯車が狂う。


鄧艾
司馬懿に登用された農政および軍事の強者。
司馬氏の与党。
隴右の都督諸軍事として、司馬望を支えてきた。
司馬懿以来、司馬氏には忠実な鄧艾。
鄧艾自身、高い実績を持つ。
それも、文武両道の実績がある。
当時の名族ではない、寒門階級としては、
トップの出世頭である。
鄧艾は、生年不明であるが、
当時70歳手前の年齢と想定されている。
当時としては、かなりの高齢である。
司馬懿が、ボケたふりをしては曹爽一派を欺いたのは、
247年、司馬懿は179年の生まれなので、
68歳である。

ボケても当然の年齢で、
鄧艾は、蜀漢討伐の一軍を任されている。

対する、上席の鍾会は、
225年の生まれで、38歳である。

幕僚としての従軍経験はあるが、
一軍を率いての将帥経験はない。

30歳近い鍾会を鄧艾は尊重するということなどあるのだろうか。

ましてや、鍾会は魏建国の元勲鍾繇の末子である。
鄧艾からお坊ちゃんに過ぎなかっただろう。

鄧艾がその出自による劣等感から、
相当な反発を持っていたことは想像に難くない。

軍事的に未知数の鍾会を将帥として認めていることはまずあり得ない。

胡烈・・・
父は胡遵である。
胡遵は、司馬懿の属将として、
諸葛亮北伐、
公孫淵遼東遠征などを戦っている。

252年の諸葛恪の東興の戦いでは、
一軍を率いている。

255年の毌丘倹の乱では、司馬師の指揮下従軍している。

胡遵は256年に死去。

その息子であるのがこの胡烈。

この安定を本貫とする、安定胡氏は、
常に司馬氏の与党である。

諸葛緒・・・
経歴が不明確な諸葛緒であるが、
瑯琊諸葛氏の一人である。
諸葛亮・諸葛瑾・諸葛誕と同族ということだ。

諸葛誕は司馬氏の姻戚であった。

255年毌丘倹の乱においては、
鄧艾配下として従軍。
毌丘倹支援の呉軍との戦いにおいて、
功績を挙げたことで、雍州刺史に昇進している。

諸葛緒は、
この蜀漢の戦いにおいて、
鍾会により、更迭されている。

諸葛緒はのちに西晋の九卿のひとつ太常に就任している。
また孫は西晋武帝の側室にもなっていることから、

諸葛誕の乱とは関係がない、もしくは諸葛誕が冤罪であったことが
明確、およびこの蜀漢遠征での更迭も無罪であることは
明確で、西晋武帝司馬炎も認識していたことになる。

なお、安定胡氏ものちに西晋武帝の側室を出している。

●鍾会以外は、徹底して司馬氏の与党で、
各軍の将帥を当てていることがわかる。



●姜維・・・録尚書事として最高権力者であった。
費禕の暗殺は、政治的決裂を生じさせた。
強行した北伐は、失敗ではないものの、
政治的決裂を直すほどの、成果は挙げられなかった。

鄧艾に大敗もしていた。

姜維は蜀漢内において、
政治的に孤立していた。

信用を失っていたのである。

三年以上成都にいて、北伐の支持、および自身の信用回復に
時間を費やしたが、
うまくいかなかった。
姜維は逃げるように262年隴左の攻撃し、
再度鄧艾に敗れる。候和の戦いである。
その後、そのまま隴右の南、沓中に駐屯。
263年をそのまま迎える。

魏において、文武両道の名将であった鄧艾と渡り合った姜維も
相当な名将である。
しかし鄧艾の方が上手であった。

●諸葛瞻
魏が蜀漢討伐を開始した時、
諸葛瞻は、平尚書事・衛将軍であった。
衛将軍は、費禕が存命時のときの姜維の官職である。
費禕は大将軍・録尚書事で、姜維は衛将軍・録尚書事であった。
武官としては、
大将軍・驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍の順番だが、
必ずしも誰かがその官職につかなくてはいけないわけではない。
なので、姜維は、費禕存命時、衛将軍として費禕の武官次席であった。

録尚書事は、二名体制。なお、本官、メインの官職があり、
それにプラスアルファされるのが、録尚書事である。加官という。
費禕と姜維では、本官が費禕のほうが上なので、姜維は録尚書事としても次席となる。

しかし、同じポジションなのは非常に大きい。

それに対して、諸葛瞻は、
衛将軍である。
しかし、諸葛瞻が
衛将軍に就いた261年当時は
大将軍姜維の武官次席にはならない。
259年に張翼が左車騎将軍、
廖化が右車騎将軍に就任していた。
陳祇の死後、姜維の反北伐派対策としての昇進である。

なので、諸葛瞻は武官第四位の席次である。

平尚書事は、録尚書事姜維の下位にあたる。
董厥とともに、平尚書事である。
平尚書事は261年に新設され、諸葛瞻と董厥が就任した。
董厥は、平尚書事に就く前は、尚書令だった。
尚書令はひとりのみなので、諸葛瞻は、董厥の下位であったことになる。
諸葛瞻の平尚書事は抜擢であったことがわかる。
陳祇後任の董厥は、北伐反対派であったので、
姜維としては、諸葛瞻の北伐支持を期待した可能性が高い。

しかし、諸葛瞻は北伐に反対した。
董厥に同調したのである。
おそらく、261年に平尚書事に就いたあとだと思われる。
姜維が諸葛瞻の平尚書事就任に反対したなどという話もないので、
これは姜維の意向も入っている可能性が高いわけだ。

諸葛瞻は丞相諸葛亮の息子として、
荊州人の象徴で、益州生まれとして益州人の支持も得やすい。

かつ忘れられがちな事実だが、諸葛瞻は漢皇帝(劉禅)の公主(皇帝の娘)を
正妻に迎えている。

漢皇帝の婿なのである。

皇帝の婿は、北伐反対で、姜維の更迭を模索した。
しかし、漢皇帝は姜維を更迭しなかった。

なぜわかるか。

皇帝の婿で、功臣諸葛丞相の息子が提案をして通れば、
皇帝の使用人・宦官が出てくる隙は無いのである。

つまり漢皇帝は諸葛瞻の提案を蹴ったのである。

しかし諸葛瞻はそれでは諦めず、
宦官黄皓にアクセスし、皇帝の意向を変えようとしたのである。

元々30年以上黄皓を使っていた漢皇帝は、
黄皓など取るに足らない人間と考えていた。

そもそも諸葛瞻が引っ張り出さなければ、
政治の舞台に立つことはなかった。

漢皇帝は
黄皓を姜維のところに出向かせ、謝罪をさせている。
姜維が黄皓の誅殺を願ったからである。

漢皇帝からすれば取るに足らない人間で、単なる使用人なので
そうさせたに過ぎない。

そもそも漢は北伐推進派と北伐反対派の微妙なバランスの中でやってきた。
常にそれぞれの立場を代表するまっとうな人物が主張しあい、
やってきた。

今までの流れからすれば、漢皇帝は大将軍録尚書事の姜維を
尊重したに過ぎない。
結構、この漢皇帝はぶれないのである。

しかし姜維は、危険と感じ、沓中に逃亡した。
北伐反対派との緊張関係があったこともあるだろうが、
一番の理由は、姜維自身が費禕を暗殺したからこそ、自身も暗殺されるかもしれないと
感じたことであろう。
この逃亡は少々極端すぎる。

上記に事例として出した、
このあたりのエピソードも、
漢皇帝劉禅を貶めるための部分もあるので、
何とも言えない。しかし事実だとしても、これだけで
劉禅を無能ということは難しいと私は考える。


姜維は258年まで北伐を5年連続で行った。
それを後方にて支えたのは陳祇だった。
しかし、陳祇が258年に死去した。
姜維は北伐をしなくなった。
その後、張翼や廖化のそれぞれ左・右車騎将軍や、
建国の元勲武官の叙勲など、
姜維が武官の昇進に動いたのも事実である。

261年の
平尚書事諸葛瞻と董厥の昇進も事実である。
262年に姜維が沓中に去るのも事実である。

これらの事実を元に、
エピソードを当てはめると、漢皇帝の良識的な判断が際立ってくるのである。

むしろ、外戚である諸葛瞻が宦官と組むという行為は、
後漢の轍に習わず、歴史を知らないと言わざるを得ない。

とはいえど、
263年当時36歳の諸葛瞻が、
荊州人や益州人を代表するということは難しかったと思われる。

姜維は、61歳、
漢皇帝は、56歳と、
両者ともども老練である。

荊州人や益州人は、
大将軍姜維や漢皇帝に影響を与えるような人材が
枯渇したからこそ諸葛瞻を担ぎ出した可能性が高いと私は考える。

つまり、諸葛瞻は振り回された。

当時の諸葛瞻は、判断して実行する能力は事実上持つことができなかったのである。

そうした中の、魏による蜀漢討伐だった。


●蜀漢皇帝・・・
223年の父帝の崩御を受けて即位。
当時在位40年を迎えていた。

蜀漢建国(事実は漢の復興)の経緯から、
諸葛亮が定めた国策北伐を前提に統治。

あの諸葛亮ですら成し得なかった北伐。
益州人たち費禕らの北伐反対論もわからなくもない。

しかし、北伐無くしてまとまらないのが、
蜀漢である。

その絶妙な政治バランスを、この皇帝は
うまく扱ってきたと私は主張する。

蜀漢内が北伐に傾けば、
録尚書事に姜維をつけたり、
さらに北伐論が高まれば嫌がる費禕を尻目に、
大将軍府を開府するよう勅命を出したり。

しかしこの政治バランスが理解できなかった
姜維による費禕の暗殺は、
諸葛亮・蒋琬・費禕、そして蜀漢皇帝が
守ってきた政治バランスを崩壊させた。

この事実は大きい。

姜維の北伐がうまくいかなかった今となっては、
荊州人、益州人とのバランスをとりながら、
現状維持をするほかなかろう。

ただし、姜維に対して、強制的に
成都に召還するというところまで皇帝が踏み込むのは、
今までの慣例上やりにくい。
いくら最高権力の皇帝とはいえ、
それを一度してしまったら、さらに政治バランスが崩れる。

この蜀漢皇帝は、
こうした政治バランスに配慮できる皇帝であった。