歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

劉禅は理想の儒家皇帝である。

漢皇帝劉禅。
中国史上最も有名な暗愚な皇帝は劉禅だ。

しかし、劉禅は要所要所で政治対立のバランサーとして
出現する。それも意外とぶれない。

姜維と費禕の対立から、漢皇帝劉禅のスタイルをたどる。


費禕を暗殺したからといってすぐには最高権力者にはなれなかった姜維。

253年姜維は費禕を暗殺した。

256年にようやく大将軍昇進。
それまでは衛将軍としての軍務。

大将軍になったとは言え、
姜維は開府を許されていない。

ここまで北伐をやりたがった姜維に
大将軍、大将軍開府を簡単に許されないのは、
なにかしらの訳がある。

大将軍に昇進させなかったのは、
費禕を支えた益州人への配慮であろう。

大将軍開府を許さなかったのは、
何故か。

益州人への配慮はもちろんであろう。

もう少し平たく言えば、
漢皇帝が姜維を信用し切らなかった、
それに尽きる。

場合によっては、姜維が費禕を暗殺したことを知っていた可能性がある。

姜維自身が、
北伐の推進に熱心であり、
最後まで蜀漢に対して忠節を誓ったこと、
これは間違いない。

漢皇帝自身に対して、
姜維は矛先を向けたことはない、

漢皇帝が北伐を推進したのは、
諸葛亮・蒋琬・費禕の事績でわかる。

ということは、
大将軍昇進、大将軍開府も許してもよかったのに、
しなかったというのは、政治的判断があるという訳である。

ここでわかるのは、
漢皇帝劉禅という人物は、確実に機能していたという訳である。

後に諸葛瞻らが姜維を排除しようとしても、
漢皇帝劉禅は揺るがなかった。
姜維はそのままだった。

この漢皇帝、意外とぶれない。

劉禅という名前は非常に強烈だ。
劉禅という名前を見るだけで、
暗愚という言葉が湧き上がってくる。
それ以外のイメージは持ち得ないほどだ。

しかし、劉禅=漢皇帝と差し替えて、
事績を辿ると、実は、最後には紛議をまとめたり、
推進するために役に就任させたりと、
重要なポイントで出てくるのである。

そう考えると、
常にこの漢皇帝の側には、名臣と呼ばれる人物がいた。
文官も武官も蜀漢にという小さい国にも関わらず、
魏に比しても並び称されるレベルの人材が枯渇しなかった。

漢皇帝が多様な人材を排除しなかったことを示唆する。

曹操や曹丕のような、専制君主で、
自身も文化史に名を残すといった万能型の君主・皇帝ではない。

となると、漢皇帝はなにを目指したのか。
そう、魏の皇帝のアンチテーゼ、
儒家の理想形、古代の帝王である。

古代の帝王のように、
身を慎んで臣下に権限を委譲し、
象徴として振る舞う。

諸葛亮の事績は、周公旦の事績に倣い、
国家の非常時なので、いわば摂政をする。
漢皇帝劉禅は、即位時15歳であったので、
幼年後見としてもおかしくはない。

漢皇帝は必要に応じて、臣下に権限を持たせる。
姜維の事例から見てもわかるように、
決して臣下の専横で自動的に権限を与えているわけではない。
主体的に権限を付与している、

古代の帝王と同じスタイルである訳だ。

この魏晋南北朝期における
対立軸は下記の通りだ。
-------------------------
法家       ⇄儒家
法治主義⇄徳治主義
法治政治⇄徳治政治
中央集権⇄地方分権
独裁       ⇄貴族政治
同一円    ⇄多重円
実力主義⇄階級社会
軍事国家⇄文治国家
内廷       ⇄外廷
宦官       ⇄名臣
濁流       ⇄清流派官僚
寒門       ⇄名族
革新       ⇄保守

------------------------
魏は左に寄っている。

それに嫌気が差した名族層が支持して成立したのが
西晋である。
名族層が上記の右寄りを志向するので、
西晋の右寄りとなる。

では、漢、この蜀漢はどうなのか。

蜀漢はそもそも、曹操の逆を徹底的に行った劉備が建てた王朝だ。

当然その息子の劉禅もそれを継承する。

曹操が、魏が左寄りである限り、
劉備は右寄りとなる。
蜀漢も右寄りとなる、

但し、漢は、魏という族が蔓延る(はびこる)異常事態である。
そのため軍事国家としての体制を整えなければならない。
それを諸葛亮が担う。
諸葛亮は、
儒家の中での周公旦に倣い、
軍事国家化を推進する。

そのため、法治、中央集権、独裁、同一円、軍事国家という
キーワードが丞相府という形で出てくる。

しかし、それ以外は、右なのだ。
それは蜀漢のベース、基礎であるので、
劉禅が担う。

上記の対立軸を元に説明すると、
漢皇帝は、右寄りのスタンスである。
しかし、異常事態、非常事態なので、
左寄りのスタンスも取る。

それを担うのは、
諸葛丞相である。

これは、諸葛丞相の発案である可能性はもちろん高い。

しかし、諸葛亮の死後も、そのスタイルを漢皇帝劉禅は維持したのである。
この事実は見過ごすことはできない。

そういう目線で見ると、
歴史の事績を見る目が変わってくる。

諸葛亮の存命時は、やはり蜀漢は諸葛亮の国であろう。

漢皇帝は、諸葛亮が危篤に陥ると、
後継者の指名を促したとされる。

諸葛亮の意中の後継者は、
蒋琬であった。

丞相府留府長史として成都にあり、
後方支援を担った蒋琬。
急速な軍事行動を諸葛亮は求めていないことは、
蒋琬指名でわかる。
蒋琬に軍事経験がないからだ。

諸葛亮の死後、丞相位は空位、永久欠番の扱いとなる。
諸葛亮は李厳のような北伐反対はあったものの、
当時から高い支持を得ていた。
凄い人物は思われていなかったらしいが、
死没後あんな人はいなかったと思われていたらしい。

諸葛亮が陣没したことで、
一旦録尚書事も空席となった。

李厳追放後空席であった尚書令には
蒋琬が就いた。

諸葛亮により、北伐は国策となっていたが、
一旦人心が落ち着くのを待てるのである。
蒋琬のサポートはあったであろう。

確かに蒋琬は歴史上の人物で名が残った一人である。
しかし、
同時代の、曹操や劉備、諸葛亮などのようなイレギュラーな
異能の人物ではない。
目覚しい実績があるわけではなく、つつがなく蜀漢を維持したことにその
成果は尽きる。

諸葛亮の死後4年経って、
蒋琬は大将軍開府を勅許され、漢中に赴く。
238年のことだ。

この余裕のある采配は、蒋琬一人ではなし得ない。
侍中の董允の成果なのか。

いや、ここは董允を側近として、
皇帝顧問の侍中に董允を任じていた劉禅を褒めるべきだと私は主張する。

後に董允が亡くなると、劉禅はそれを嘆くのだ。
小うるさい董允がいたことで、窮屈な思いをしたはずの皇帝が、
董允を惜しんでいるのである。
この漢皇帝を勤勉である、最低でも勤勉な一面があるぐらいは
評価をせざるを得ない。

さて、蒋琬が漢中に出鎮するも、
費禕の反対があり、遅々として進まない。

費禕は、
漢皇帝は実の父から、父のように仕えなさいと言われた、
諸葛亮が推進した北伐に反対するのである。

ここで、皇帝の逆鱗に触れて・・・などという
事例は中国史上枚挙に暇がない。
免官、左遷、誅殺、
いずれもなかった。
皇帝は、蒋琬と費禕の意見調整を待った。

それを暗愚とするか。
この時代が求めていた漢皇帝のあり方そのものではないか。
寛容の政治、曹魏に対するアンチテーゼである。
特に時は、魏明帝曹叡の独裁時代。
際立ったギャップである。

蒋琬は費禕と協議する。
事実として北伐ができなかったので、
不調に終わったのであろう。

それでも蒋琬は東に荊州を攻める形で、
なんとか北伐を実行しようとしたが、
諸将の反対と自身の病気のため行うのに難航した。
それでも蒋琬は諦めていなかった。
しかし、この遠征取りやめをさせたのは、
漢皇帝である。

それで沙汰止みなのである。

漢皇帝の確実な意図でなければ、
蒋琬が北伐にこだわることはないということだ。
蒋琬の独断専行だったとすれば、
こうはいかないであろう。
諸葛亮がもし同じ立場であれば、
抗議して北伐を敢行した可能性は十分にある。

すなわち、漢皇帝という存在は、
バランサーとして効いていたのである。
漢皇帝の意図は政策実現に反映されていたのである。

北伐賛成派の強硬派姜維も、蒋琬の側にいたのである。

それさえも、漢皇帝の意向として効き目があったのだ。

蒋琬は、
病に倒れ、涪城に下がる。
費禕が事実上の後継者として、
243年に大将軍・録尚書事となる。
費禕は北伐反対派だ。
漢皇帝は費禕たちに一定の配慮はしてきている。

しかし、北伐を全くしないというのはまずい。
そもそもこの蜀漢は北伐無くしてまとまらない。

姜維のような、諸葛亮の遺志を強く継ぎたいと思っている
高官も多い。
にも関わらず、費禕の腰は重い。
246年に蒋琬が死去した後、
翌247年に北伐賛成派の姜維を録尚書事にしている。

これまで蒋琬が生きている時には、
243年以降蒋琬と費禕が録尚書事だった。
蒋琬が死去すれば、当然録尚書事は費禕一人になる。
費禕がそう考えるのは当然だ。

しかし、そうならなかった。
姜維が録尚書事に加官されたのだ。
これを嫌がらない人間はいない。
当然費禕は嫌がったはずだ。

これをしたのは、漢皇帝の独断か。
それとも蒋琬の遺言か。

いずれにせよ、漢皇帝は姜維を録尚書事にしたのだ。

これは暗愚なのだろうか。

費禕は248年に漢中に駐屯している。

247年北伐推進派の姜維の録尚書事、
248年の費禕の漢中駐屯、
この2点だけで、彼らよりも上位のファクター、すなわち漢皇帝が
北伐を推進しようとしているのがわかるであろう。

それでも費禕は北伐をしなかった。
当然蜀漢内の北伐推進派の不満が溜まる。

そうして、252年には費禕に大将軍府開府の勅許を与える。
大将軍府開府勅許とは言うが、
これは細かく言うと二つのパターンがある。

臣下が勅許を求めて申請するのと、
皇帝が命令として開府しなさいという、
二つのパターンだ。

当然諸葛亮の丞相府開府は、諸葛亮の申請であろう。
蒋琬はなんとかして費禕の賛成を取り付け、北伐をしようとした。
やはりこれも蒋琬により申請の結果だと思われる。
この費禕の大将軍府開府は、皇帝の命令であろう。
流れとしては、費禕が突然開府を求める理由が見当たらない。
費禕は252年には大将軍府開府勅許の時、成都に戻っていた。
早く北伐を、という具体的なメッセージとしては非常にわかりやすい。

それでも、
費禕は蜀を出なかった。
漢中に行かなかった。

費禕の北伐反対派筋金入りである。

国力差がある中、じゃあこの蜀漢は今後どうするのかが、
あればまだよかったのだろう。

費禕は最低でも10年は北伐に反対しているのに、
その反対の理由も、今後の展開も史書に残っていない。
なかったと見るしかない。
それらがあったような行動もないのだ。

現状維持以外に策がないと批判されてもやむを得ないであろう。

漢皇帝が北伐を促しても、
のらりくらりと交わす費禕。

むしろ、漢皇帝の北伐に推進という意思、
および大将軍府開府勅許などの具体的な行動がなければ、
北伐推進派の矛先は漢皇帝劉禅に向かっていたはずだ。

漢皇帝が北伐推進派の意向を汲んでいたため、
ここまで北伐推進派と反対派の均衡が保てたとも言える。

こうした臣下の路線争いが、
権力争いにつながることは往々にしてあり得る。

魏は249年正始政変が起きて、司馬懿が権力を握るが、
これは国家体制のあり方を巡る、司馬懿対曹爽の争いとも見れる。

蜀漢にとっては、より切実な北伐是非に関する争い。
そのバランスを取ってきたのは、
漢皇帝劉禅であった。


しかし、姜維が暴発する。
姜維は費禕を暗殺した。

この事実を漢皇帝は把握していたと私は考える。

だからこそ、この非常事態でもすぐに、
費禕の後任の大将軍に姜維を就けることはなかった。

また、暗殺後3ヶ月にして姜維は早速北伐を行う。
漢皇帝はそれも許した。
10年以上耐えてきたのだ。

止めることはできまい。
そもそも繰り返すが、北伐は蜀漢がまとまるための国策なのである。

5年連続の北伐を許した。

政治的に見たら、許す他ない。

現実的に蜀漢のまとまりを維持するためには、
そうするのが妥当であろう。

姜維は5年連続北伐を行った。

目覚しい成果は挙がらなかった。
目覚しいというのは、長安の回復や、襄陽の占拠などと言った、
歴史を変えるような成果のことである。

姜維をずっと支えてきた尚書令の陳祗が
258年に亡くなった。
漢皇帝は陳祗を悲しみ嘆いたとされる。
これも事実であろう。
この漢皇帝は圧倒的に評価が低い。
評価が低い人に嘆かれたい人物はいない。

漢皇帝が陳祗の死を嘆いた。
つまり、漢皇帝は北伐を推進した陳祗を支持していたわけだ。
人事によって、漢皇帝自身の意思を反映させている。

陳祗の後任の尚書令は、
董厥になる。
董厥は北伐反対派であった。

漢皇帝は、董厥の北伐反対を知らずして
尚書令にしたのだろうか。
そうであれば、なんの道理もわからない人物として、
史書に記されるだろう。
同じく後世に暗愚な皇帝として有名な
西晋恵帝には意思がある。

暗愚な皇帝でも意思があるのだ。

では、この尚書令に北伐反対派を就けるのは、
やはり漢皇帝の意思なのだ。

姜維よ、一旦北伐を止めよ、
北伐反対派に権限を持たせて、バランスを取ろうと。

姜維はこの人事を受けて、
成都に戻る。

ロビー活動を行うも、
北伐の推進と輿論がならない。

姜維の進言通り、
建国元勲の武官に爵位を与えたり、
武官を充実させたりしても、
北伐論は盛り上がらない。

逆に、
姜維が費禕に対して非常手段を取ったためか、
北伐反対派は、姜維の更迭などの強硬策を取ろうとする。
宦官まで使って漢皇帝を動かそうとする。

北伐推進派と反対派に常に配慮してきた漢皇帝は、
この動きには乗らなかった。

ただ、姜維が危険を感じて、逃げ出しただけである。

姜維の逃亡は、
蜀漢のカタストロフィを生んだ。

しかし、
これは、
蜀漢という国の限界であり、
漢皇帝自身の責任なのだろうか。

むしろ、少ない国力の中、
限界までやりきったと見えなくないか。

だからこそ、
譙周の降伏提案を受け入れることができたのではないか。

もう漢皇帝劉禅はやることをやっているである。

譙周は全く主流派でもない。

多数の人の意見を聴く耳すら持っている。

どこにも、暗愚な点が見当たらない。


司馬昭に対して話した、
エピソードは全くの芝居だと私は確信する。

蜀など懐かしむことはない。
郤正の無意味な進言に従い、
そのままを司馬昭に伝えて、それは郤正の言葉そのままですね、
という二つのエピソード。

劉禅は、自身の意思を表に出さない、
強い精神を持った人物である。

儒家思想上、最も皇帝らしい皇帝であった。

しかし、国を亡国に追いやったという結果が、
彼を最も暗愚な君主という評価をせずにはいられなかった。

儒家のストーリーにそぐわない、
それが劉禅であった。