歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

出自が似通いウマが合う、司馬穎と恵帝皇太子司馬遹。

 

司馬穎は恵帝の皇太子司馬遹と仲が良かった。

理由は二つある。

 

 

 

 

①年齢が近いこと


司馬遹は278年生まれ、
司馬穎は279年生まれである。


②両者の母の出自が卑しいこと

 

司馬遹の母は、屠殺業者の家の出身で、
後宮の序列は「才人」であった。
司馬穎の母も「才人」であった。

 

司馬遹は学問があまり好きではなく、剛毅な性格。
司馬穎は文盲である。この後、司馬乂に向かって戦争を起こしたのは
司馬穎なので、勇ましいのは間違いない。
司馬遹と司馬穎、
馬が合うわけである。

 

父武帝司馬炎に顧みられなかった司馬穎は、皇太子司馬遹のおかげで
日の目を見た。

賈后が実権を握っている元康年間に、
賈后の甥賈謐が皇太子司馬遹を侮った行為をすると、
賈謐を責めている。

司馬穎にとって皇太子司馬遹の存在は相当に大きかったはずだ。

 

それゆえに、これで賈后・賈謐に睨まれ、
司馬穎は鄴に出鎮させられる。
賈后・賈謐は皇太子司馬遹を皇太子から廃すことを計画していたためである。

 

しかし、これは司馬穎にとって行慶であった
鄴は曹操以来の副都で、文化・経済力も高く、大きな軍事力が駐屯していた。
後のことを考えると司馬穎は賈后らに睨まれ得だった。

こののち皇太子司馬遹は賈后に廃され、その後暗殺される。

それをきっかけに司馬倫が賈后に対してクーデターを起こす。

当然司馬穎も参加する。

司馬倫が皇位を簒奪すると、
今度は司馬冏が司馬倫に対して挙兵する。

恵帝の弟である司馬穎は司馬冏の檄に応じ、
鄴の軍事力を持って、洛陽を落とすという大殊勲を挙げる。

 

しかしながら、言い出しっぺの司馬冏が政権を取るのは
当然で、
司馬穎は功第二位となる。

武帝司馬炎の同母弟司馬攸の子で、母は賈氏の
司馬冏は司馬穎よりも血統に優れている。

檄を飛ばしたが、進軍できずにもたもたした司馬冏を
司馬穎は見下したであろう。

司馬冏に協力するなどは考えられない。

 

●司馬冏に反発する司馬穎

 

司馬穎は、鄴に出鎮した際、鄴の県令であった盧志を
参謀格としている。

司馬穎は善後策を盧志に相談する。
政治的な判断など司馬穎にはできないからである。
自身が卑しい出自の司馬穎は、特に出自や派閥を気にせずに、
人材を採用する。

八王の乱の中で、敗れ去った勢力に与していた人材が集まってくるのが
司馬穎の強みだ。

盧志は范陽盧氏の出身で名族の一つだが、
何故か鄴の県令止まりで高位にいなかった。
范陽盧氏が魏に協力的だったからだろうか。

盧志は、政権に参与せず、
母の病を理由に鄴に引っ込むことを提案する。

それで時機を待とうという戦略である。

司馬冏は大司馬として政権を運営する。
大司馬は漢においては、政権首班の、最高権力者のポジションである。
霍光や王莽も大司馬について政権を運営している。

王戎を司徒、司馬越を司空にして政権の中枢に置くも、
鄴と長安でそれぞれ司馬穎と司馬顒が軍権を持って、
中央の司馬冏に従わない。
西晋自体が分裂状態である。

政権運営が困難なまま時は過ぎ、
司馬顒から弾劾状が届く。

司馬冏はこの事態に対して適切な対応が取れず、
司馬乂に宮中に乗り込まれ、敗死した。

司馬冏は皇帝を蔑ろにし贅沢三昧にしたと晋書にあるが、
これは後付けであろう。そもそも、大司馬で九錫を受けているのだから、
皇帝のような生活をして当然である。
九錫は、本来は皇帝のみが扱える特典を臣下もしてもよいということである。
皇帝のように振舞っているように見えて当然であり、
こじつけである。

さて、
ここで実は一つの誤算が生じている。

このあたりの陰湿な策謀が八王の乱をよりややこしくしている部分だが、
一方で面白さである。

兄司馬乂は、弟司馬穎の要請に基づいて、
洛陽にてクーデターを起こし司馬冏を殺害した。
これは事実である。
しかし、司馬穎はこの司馬乂の宮中クーデターは
失敗することを確信していた。

失敗し、司馬乂が殺される。
それで、司馬穎は義兵を挙げ、鄴から洛陽にて進軍し、
一挙に司馬冏を討ち滅ぼす。
司馬穎は英雄として、政権運営に当たり、
めでたしめでたしである。

司馬穎はこれを狙っていた。

どれほどに、司馬穎が司馬乂を邪魔に思っていたかが
わかる。

しかし、司馬乂は、司馬冏を見事討ち滅ぼし、
司馬穎の功績になるはずだった司馬冏討滅の大功は、
司馬乂のものとなった。