司馬穎
匈奴漢劉淵は司馬穎・司馬顒の系譜を継ぐ。 司馬越はこれらに対抗する。 この対立構図は八王の乱の初期からずっと変わっていない。 それは西晋末、五胡十六国時代にかけてずっと不変の構図となる。 ●賈后派と司馬穎派: ●北魏の華北統一は新しい時代の到来を…
●きっかけは、前200年白登山の戦い ●前漢武帝、中華の雪辱を晴らして、秦の始皇帝とイコールになる。 匈奴の単于を傘下に置くこと、それは中華皇帝にとって、最大の正統性の証であった。 ●きっかけは、前200年白登山の戦い 現在の大同(当時は雁門郡平城。代…
●天から選ばれた子という天子伝説に則って、劉淵は自立した。 ●祀る皇帝は下記の三祖五宗 劉淵の自立理由は二点だ。 ①匈奴本国の掌握の為である。 ②匈奴の不満を抑える為である。 ●とはいえ304年に自立した劉淵は3年大して動かない。 ●匈奴だけではなく、こ…
++劉淵に匈奴独立の動機がない++ ++後漢末期の匈奴単于羌渠と同様に殺されかねない状況の劉淵++ 劉淵は親西晋、羌渠と同じ、親中華 ++やむなく自立する劉淵、促したのは左賢王劉宣の現実的な判断++ ++劉淵に匈奴独立の動機がない++ 劉淵のこ…
251年生まれの劉淵は、304年、すなわち劉淵53歳の時に、ずっと中華の中心中原にいたのを、鄙びた田舎の離石に移動して自立する。最晩年のこの大きな変動は個人の人生として幸せだろうか。そこまでして、部族を引き連れなければいけないものなのか。 ++劉宣…
八王の乱は五連発の政変を指す。
司馬穎の政治生命は、 301年4月の司馬倫の対賈后クーデターから頭角を現し、 304年8月鄴陥落、304年12月に皇太弟を廃されて、 事実上政治生命を終えてしまった。 司馬穎の命は、306年10月に終わる。 劉淵の雄飛 石勒の登場 石勒の生い立ち 公師藩の挙兵 汲桑…
西晋の内乱と異民族の自立。 王浚の自立。 異民族は匈奴、烏桓、鮮卑の登場。
304年が西晋の命運を決める。 西晋の事実上の崩壊、 一方で匈奴を始めとした異民族の 分離活動が活発化する。
司馬越の逃亡、司馬穎の逃亡。 305年7月の司馬越の挙兵が 八王の乱を終わらせる。 【司馬越逃亡、司馬穎逃亡】 【鄴の掠奪】 【司馬穎の失脚】 【司馬越挙兵】 【司馬顒の反抗】 【司馬越、政権掌握】
蕩陰の戦いが西晋の運命を決める。 恵帝の親征の意味と、 司馬越の戦下手。
運命の蕩陰の戦い。 恵帝・司馬越 VS 司馬穎・司馬顒。 皇帝と世継ぎの戦い。 歴史上稀有な戦いである。 奇襲によりあっけなく終わる。
出自の悪さは歴史上頻繁に差別される。 畠山義就、豊臣秀吉から、 出自が悪いという差別は何を意味するのか、を考えたい。
司馬冏が滅びると、司馬乂と司馬穎の兄弟喧嘩である。 兄弟喧嘩の背景 兄弟喧嘩が政局に与える影響 兄弟喧嘩が軍事衝突を引き起こす。 司馬越の裏切り 兄弟喧嘩の背景 これも西晋と言う時代の縮図である。 出自が良く、漢籍を収め儒教的経典の教養を身につけ…
司馬穎政権 全く支持が得られないその理由: 司馬越たちの後悔 さて、司馬越が司馬乂を裏切ってくれたことで、司馬穎はようやく政権を奪取できた。【司馬穎政権】-------------------304年1月28日司馬乂は司馬越の手により、火炙りに処され、殺された。司馬…
司馬穎は恵帝の皇太子司馬遹と仲が良かった。 理由は二つある。 ①年齢が近いこと ②両者の母の出自が卑しいこと ①年齢が近いこと 司馬遹は278年生まれ、司馬穎は279年生まれである。 ②両者の母の出自が卑しいこと 司馬遹の母は、屠殺業者の家の出身で、…
八王の乱唯一の兄弟喧嘩 司馬乂 対 司馬穎 司馬穎「いけしゃあしゃあと理屈を説いてくる兄司馬乂などと組めるか!」 ①司馬朗家(司馬威) ②司馬馗家(司馬越) ③司馬孚家(司馬顒) ④司馬肜 ⑤司馬倫 ⑥司馬伷家(司馬睿・司馬澹・司馬繇) ⑦司馬駿家(司馬歆…
①司馬朗家(司馬威) ②司馬馗家(司馬越) ③司馬孚家(司馬顒) ④司馬肜 ⑤司馬倫 ⑥司馬伷家(司馬睿・司馬澹・司馬繇) ⑦司馬駿家(司馬歆) ⑧司馬攸家(司馬冏)司馬師家でもある。 ⑨司馬允 ⑩司馬乂 ⑪司馬穎 302年12月に司馬冏が敗死すると、 プレイヤーは…
司馬倫と司馬穎の共通項。 司馬倫と司馬穎は八王の乱を勝ち切れなかったものの、 強い勢力を持って八王の乱を戦った。 司馬倫は、恵帝から皇位を簒奪し、皇帝にまでなる。 司馬穎は、司馬倫を倒した司馬冏を打倒し、皇太弟になる。 両者とも一度は国権を押さ…