歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

西晋恵帝を殺したのは司馬越ではない。

306年11月西晋皇帝の恵帝が死去した。

 


むぎ餅を食べて中毒になり翌日に死んだらしい。
 
暗愚な恵帝のこと、あり得る話だと笑って済ませてしまいそうだが、
そう事実は簡単ではない。
 
恵帝という皇帝が餅ごときで死ぬ、この事実。
 
死には三パターンある。
・自殺
・事故
・他殺
 
 
史実は、事故である。
 
自殺として考えるも、
これは結構苦しい死に方だ。自らするにも勇気がいるし、
小細工も必要だ。敢えてそれをする動機が恵帝にはない。
 
ここは他殺で考えてみたい。
むぎ餅を食べて中毒になり死ぬという現代の我々からすると、
ちょっとイメージしにくい死に方だが、
食中毒ということであろう。
 
事故なら、
毒味か調理係の責任だ。
 
他殺なら、
これは毒殺である。
 
その犯人ではないかとよく言われるのは、
司馬越である。
 
司馬越は、
306年6月に恵帝を奪還、洛陽に迎え入れ、
306年8月に政権を掌握。
この時点では、司馬越は、301年から始まる八王の乱の
最終的な勝者となっていた。
 
だからこそ、最高権力者司馬越は、
恵帝の存在が邪魔になったので、
後漢の梁冀と同じやり方で、
毒殺したという発想である。
 
なお、でっち上げのようだが、王莽も前漢平帝を毒殺したという
俗説もある。
   

【司馬越が恵帝殺害犯ではない理由】

 


しかし、これはあり得ない。
理由は二つ。

①政治的な理由:

 
司馬越は、305年に恵帝の洛陽還御を提唱して、各地の諸侯に檄を飛ばした。
その考えに賛同して、司馬越を盟主として戦った。
恵帝の洛陽還御はなり、当然司馬越は高い名声を勝ち得た。
にも関わらず、政権掌握から数ヶ月足らずで、
殺してしまうなど、政治センスのかけらもない。
 
司馬越の強みは、巧みな政治感覚だが、
これでは、司馬越にとって何のメリットもない、
疑われるだけで名声を落とすだけである。

 

②司馬越にとってがメリットない:

 
上記の理由もそうだが、
確実に司馬越にとっては恵帝が存命の方が遥かにメリットが大きかった。
そもそも恵帝の暗愚の程度はわからないが、
恵帝は優しい。
自身に親切にしてきた、賈后や嵆紹には優しいし、
司馬冏の処刑直前には自身が蔑ろにされたにも関わらず、
哀れみの情を見せている。
 
最高権力者、ここでは司馬越だが、が
恵帝のことを確実に守ってくれれば、恵帝はおとなしく従ってくれるのである。
 
今までの最高権力者と同様、司馬越にとっても、
言いなりになってくれて、NOを言わない、恵帝は
本来やりやすいのである。
 
それなのに、恵帝は死んでしまった。
司馬越にとっても大きな打撃である。
 
 
さて、恵帝がむぎ餅中毒で死ぬとどうなったか。
 
司馬越は名声を下げた。
恵帝の後継者として、懐帝が即位、この皇帝は司馬越の思い通りにならなかった。
 
司馬越にとって全くメリットがない。
 
では、恵帝崩御でメリットがあったのは、誰か。
 
それは、
司馬熾、皇帝即位して懐帝である。