曹操・曹丕により、
政策化した徙民政策。
これを大いに活用するのが、
五胡十六国時代の幕を開けた石勒である。
●後漢末より大乱だった西晋末
西晋武帝司馬炎による一時の平和ののち、
八王の乱、永嘉の乱が起きる。
足かけ23年の争乱であり、
黄巾の乱以降の争乱と勝るとも劣らない大乱であった。
後漢末は207年時点で曹操が華北を掌握するので、
華北は落ち着く。184年の黄巾の乱から23年後のことである。
しかし西晋末期は、
328年に石勒が劉曜を打ち破るまで、華北は大乱が続くのである。
290年に八王の乱が始まってから38年後のことだ。
こういう視点で見ると、
西晋末期の方が後漢末よりも大乱だったと言える。
当然、人口も減少する。
中心部からは争乱の為に民が逃げる。
特に今回は西晋の残党が江南に逃げてしまったので、
より民が流動化した。
中華の主要部に民がいなくなったのである。
こうした中登場したのが石勒である。
争乱を締めくくった石勒は、
国づくりをするために民を徙す必要に迫られる。
曹操や曹丕と同じく、中華復興のために
民の調達、すなわち徙民が必要になる。
●最も大規模な徙民政策を行った石勒
石勒は、
ざっと660万人以上の民を徙民した。
西晋は司馬炎が皇帝になった265年に
1600万人の人口がいた。
その後三国統一で人口は増え、
八王の乱以降の大乱で人口は減少。
ざっとプラスマイナスゼロと仮定するのなら、
約4割の民を石勒は動かしたことになる。
民の二人に一人は強制移住させたということである。
また、貴族名族など動かせない権力者もいたであろうから、
庶民の感覚としては殆どの人が徙民政策、
つまり強制移住の対象者となったわけである。
西晋末期の争乱を収めたのは石勒である。
石勒は曹操と同じ立ち位置である。
●石勒と曹操
石勒は歴史上の曹操の後継者と言える。
●西晋末の大乱を収めた石勒は中華の人口分布を改造する。
石勒は、
江南、荊州、蜀以外は掌握した。
これで西晋末期の争乱はひと段落したのである。
そのため曹操、曹丕と同様に徙民を実施する。
だから規模が大きい。
石勒の果断な実行力も大きいが、
必要に迫られたものである。
最も規模の大きい移動は、
関中から関東、つまり河北への徙民である。
●関中が無人の野に。
これは、
石勒のライバル劉曜を攻略した後、
関中を根こそぎ滅ぼすためである。
石勒の本拠地鄴や襄国周辺に配置した。
数は実に365万人以上である。
西晋初の人口で見れば2割の民を集めたのである。
関中の存在感を喪失させるのに十分な人数だったと思われる。
この後、関中は苻堅の祖父苻健が帰るまで、
歴史上に出て来ない。
関中は石勒が根こそぎ民を徙民するまで
中華の重要な拠点であった。
長安を中心とした関中は、
後漢末大きな被害を受けた。
これを復興させたのが鍾繇である。
復興した関中は曹操の覇業を大いに助ける。
曹操の河北での戦いをバックで物資等を送って支援したのだった。
だから、曹操は覇業がなったのち、
鍾繇を指して、私の蕭何だ、と称賛した。
魏において、長安は
対蜀戦線の軍都として重要な拠点となる。
西晋においてもこれは同様で、蜀を滅ぼした後も、
北方や西方の異民族、鮮卑や羌族などへ睨みを利かせる重要拠点であった。
軍都長安は八王の乱でも存在感を見せる。
八王の一人、司馬顒(しばぎょう)がここに割拠して、八王の乱に影響を与えた。
後に西晋の残党を滅ぼして劉曜が入り、石勒と対立する。
長安は中原・河北の対立軸として常に存在感を見せた。
だが、
石勒の大規模な徙民により長安、関中は存在感を失った。
石勒にとっては憎き劉曜を支えた民を奴隷にして、
根こそぎ自身の領地、庭に持ってきたに過ぎなかった。
そのまま、自分のお膝元に置くことで、
関中の勢力を完全消滅させる。
そして
石勒の後趙建設の貴重な人的資源として
扱われたのである。
石勒の行ったこの徙民政策こそが
典型的な事例である。
●参考図書: