歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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石虎は石勒にとって、実の息子のようなもの。

英傑につきものの後継者問題。

石勒自身、高い能力を持っていたので、

その死後権力バランスが崩れる可能性は非常に高かった。

 

石勒がいなくなると、

たった一人の人物が突出してしまうのである。

 

 

石勒の一族として活躍、

高い軍事能力とその実績を持ち、

後趙建国の元勲としてのポジションを持っている。

当時最高レベルの都市鄴を支配し、

名実共に石勒を継げる存在、

石勒が死ぬ333年に38歳の働き盛り、

それが石虎であった。

 

石勒は自分の子孫のために石虎を殺すべきだった。

しかしできなかった。

 

●石勒は晩年に中華統一必勝パターンを作り上げた:

 

本格的に八王の乱が始まる300年から見ると、

華北は大混乱に陥るが、

異民族の石勒が328年に華北を統一する。

石勒は333年に世を去る。

 

そこに絡むことができなかった、

西晋の残党と言える集団が、

江南に逃げて、東晋を建国していた。

 

東晋の視点から見ると、

東晋建国から、王敦の乱、蘇峻の乱に至るまで、

華北でも争乱が続いていたことになる。

 

長江を挟んで、南北でそれぞれ別の争いがあった。

 

匈奴漢、

その後の

石勒と劉曜が華北争奪戦を

繰り広げていた。

 

石勒が328年に華北を統一すると共に、

東晋の混乱は329年にひとまずの決着を見た。

 

偶然にもちょうど同じ時期である。

 

東晋は、

五勢力分立ながらも、

皇帝を握る、外戚の庾亮が権力を握った。

外戚が出て来るところが漢民族らしさである。

 

石勒が建てた王朝は後趙と言う。

 

東晋に対して、

後趙の方が相対的に有利であった。

 

華北は争乱があったとはいえ、

古来からの先進地域である。

 

これからの展開は、曹操から、

司馬昭、司馬炎に至るやり方に習えばいいのだ。

 

 

華北を得た後趙石勒は、

国力を蓄え、

蜀を手に入れる。

そして、荊州と蜀で軍備を整える。

江南を攻めるのに大事なのは船だ。

造船を行い、

満を持して江南建康(旧名建業)に攻め込めば、

攻略できる。

 

石勒は曹操に非常に似通っている部分が多い。

 

曹操にとっての赤壁の戦いは、

石勒にとっての葛陂の戦いである。

 

曹操から司馬氏専横、司馬炎の西晋建国、

その後の天下統一を思い出せば、

石勒が思い描いていた展開は読める。

 

石勒は274年生まれである。

劉曜との洛陽決戦で勝利し、劉曜を捕らえて

処刑した時が328年である。

 

石勒、このとき54歳、

曹操の54歳は、208年赤壁の戦いの年である。

しかし、ここから曹操と道が分かれる。

 

●石勒の落とし穴、後継者問題

 

石勒は曹操と同じように後継者問題を抱えていた。

 

曹操と異なり後継者は確定していた。

長男は早世したので、

次男の石弘が嫡子であり、彼が後継者である。

母は程氏である。

兄は程遐(ていか)である。

程遐は張賓には劣るが、張賓亡き後石勒を補佐した。

漢人官僚層のトップである。

 

このように体制は万全なのだが、

石勒亡き後の体制を考えるときに大きな問題があった。

 

●石勒にそっくりな石虎:

 

宗族のトップで

石勒の族弟石虎(せきこ。295年生まれー349年没)

の軍権が強すぎるのである。

 

石虎は宗族トップであるとともに

石勒の後趙の軍事トップでもあった。

建国の元勲でもある。

中山王として、要衝鄴を封地としていた。

 

石虎は粗暴、暴虐、悪く描かれる人物だ。

しかし、石勒はその石虎をコントロールできた。

それは、石虎が石勒の若い頃にそっくりだからである。

 

石勒は、葛陂において悟り、

漢人の考えを取り入れて、華北の覇者となった。

曹操の再来である。

 

それは石勒が必要性に迫られた部分もある。

葛陂で立ち往生して、窮地に追い込まれたからだ。

 

異民族の石勒が、

漢人の考え方を取り入れるパラダイム変換は

当然苦痛を伴うものである。

 

しかし石虎はそういう状況に置かれなかった。

石勒としても、

石虎のそのような一種のヤンチャさがあるからこそ、

戦いに強いとわかっている。

 

石虎に石勒がしたようなパラダイム変換を求めなかった。

石勒はそんな石虎が間違いなく好きだった。

後継者問題で悩むまでは。

 

石勒は胡漢融合、つまり異民族と漢人を平等に扱うことを

国是としてきた。

 

それが石勒の悟りだった。

これこそが石勒の後趙の強みであった。

 

しかし、石勒は石虎のことがわかりすぎるので、

敢えて変えようとも思わなかった。

それよりも石虎の高い軍事能力を活かす方がメリットがある。

 

実は、

胡漢融合など考えもしなかったころの石勒に

石虎はそっくりなのだ。

 

だから、石勒死後を考えた時、

確実性を取りたいのであれば、

石虎を殺す他なかった。

 

実はもう石虎の高い軍事能力は必要がなかった。

それよりも国を確実に治めることこそが

後趙の戦略だった。

石勒の作った後趙はもう必勝パターンに入っていたのだ。

 

石勒は分かっていたはずだ。

もう石虎は必要がなかった。

いわゆる、

狡兎死して走狗烹らる、である。

 

しかし石勒はできなかった。

石勒の思いがここに隠されている。