北魏の歴史を俯瞰した時に、
漢化というテーマをどう扱うかで、国勢が定まっている。
この扱い方が、成功要因・失敗要因となっている。
●北魏の成功要因・失敗要因は漢化である。
北魏の成功要因は漢化しないこと。
道武帝、太武帝の向かうところ敵なしの強さ。
これは異民族の持つ軍馬を中心とした軍事力を保持し続けたからである。
中華の地に遷都せず、本拠をぎりぎり北方の文化を保てる平城に置いた。
遊牧の地で、軍馬を育て、馬に親しみ、軍事に活かす。
反対に、
失敗要因は漢化したことである。
北魏孝文帝は結果から見れば、
苻堅の轍を踏んだのだ。
孝文帝は、
急速な漢化を進めた。
これにより、漢族との融和は進んだが、
異民族としての武力は捨てたことになった。
皇帝はただの中華皇帝になった。異民族出身ではあるが。
この捨てた武力は六鎮に留まっていた。
これらが反乱を起こしたことで、北魏は事実上滅びた。
異民族のとんでもない軍事力。
侯景などは高歓の一武将にもかかわらず、
南朝の梁を半滅亡に追い込む。
それほどの軍事力を持つのが、北方の地なのである。
●宇文泰の鮮卑化。
北魏が滅びた後、
宇文泰は鮮卑化による巻き返しを図る。
現実的な判断だったとはいえ、
これが功を奏す。
自分たち北周(西魏)に比べて、北斉(東魏)は強かった。
宇文泰は国防のために軍事力を重視する必要があった。
そのために、
用いた宇文泰の施策が、鮮卑化と関中本位政策と呼ばれるものであった。
●異民族の軍事力で漢族を屈服させて、漢族を取り込むのが正解。
これが功を奏し、北周は着実に国力を増強。
北周は北斉を滅ぼし、華北を統一。
北周を乗っ取った隋の楊堅が中華統一を果たす。
これらは、
異民族の強みである軍事力を保全したままであったからだ。
軍事力で漢族を屈服させて、漢を取り込むのが正解。
この結論に達したのは、つまり北周が北斉を滅ぼした時であった。
これ以後の、隋唐では、
軍事力を維持しながら、漢を取り込むのが基本政策となる。
これが次に崩れるのは、
唐の玄宗である。