歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

南匈奴の没落と鮮卑檀石槐の勃興~後漢後期~

南匈奴が後漢に服属したことにより、

陰山山脈から北の脅威がなくなった。

敵対する遊牧民のまとまった勢力がなくなったのである。

 

遊牧民は当然定住しないので、だたっぴろい放牧のエリアがあるだけだが、

ここが空白になった。

この空白を埋めたのが、

鮮卑の英雄檀石槐(たんせきかい)である。

活動時期は二世紀後半、

後漢皇帝は桓帝(在位:146年~167年)、霊帝(在位:167年~189年)の

時代である。

 

この時代に匈奴冒頓単于が持っていた勢力図を一気に制覇したのである。

 

 

後漢のこの時期は政治の評価がとても低い時期である。

桓帝を即位させたのは外戚であり、跋扈将軍の梁冀である。

桓帝は梁冀を宦官の力で覆滅するが、宦官に権力を握られたという時代だ。

霊帝の末期には、184年の黄巾の乱が勃発、

霊帝の死後には董卓が現れ、霊帝の崩御はそのまま後漢の滅亡といっていいくらいだ。

長い内乱のようなもので、長城以北の異民族に関心を持つ余裕はもちろんない。

 

南匈奴もこの後漢の内乱に巻き込まれた。

下記に南匈奴の後漢服属後から、三国時代までの流れをたどってみる。

 

51年に南匈奴が後漢に服属する。

91年に後漢の大将軍竇憲が南匈奴を従えて、

北匈奴を討伐、滅亡に追い込んだ。(後漢皇帝は和帝)

後漢は、このころから外戚の専横が激しくなる。

またその外戚を排除するために宦官を使ったことから、宦官が力を持つようになる。

後漢は内部の権力争いが中心となるため、南匈奴にとっては平和な時代が

100年ほど続いた。後漢に対しては従順であった。

 

しかし羌渠単于が188年に族内の争いで殺される。殺害者は後漢への援軍を嫌った。

右賢王去卑は後漢献帝の長安から洛陽への逃避行の護衛をした。

安邑、洛陽、そして許昌まで献帝に随行した。(195年冬から196年)

 

南匈奴は河套(オルドス)に王庭を置くようにと後漢から指示されていた。

しかしこのころは、

平陽を拠点としていた。(ここは春秋晋の都・絳のあった場所。現在は臨汾市)

太行山脈から西の并州に南匈奴は勢力を持っていた。オルドス地方まで含む。

 

上記献帝の逃避行だが、まず長安から安邑に行っている。

戦国魏のはじめの首都だが、このあたりを河東と呼ぶ。

長安から見て、東に行くと黄河にぶつかる。

これを渡河すると、安邑にたどり着く。この河東というエリアを

広く見ると、南匈奴単于の本拠・平陽も河東だ。

つまり献帝はまずは長安を出てから、南匈奴の領域へ逃げ込んだことになる。

長安から安邑へ 献帝

 

曹操は200年に官渡の戦いで勝利、華北を手にする。

南匈奴単于・呼廚泉は202年に曹操に反乱を起こす。

袁紹配下の残党とともに反乱を起こす。

 

華北を押さえた曹操は南匈奴にはここでは戦わず、

 

205年に烏桓討伐、遼西の確保。

211年馬超・韓遂連合軍を撃退。関中の確保。

215年漢中の張魯討伐、漢中の確保。

という流れで、

216年に魏王に昇る。

この216年というタイミングで南匈奴単于・呼廚泉は曹操に降伏。服属する。

 

南匈奴が文化的に中国と考えられる地域の中に居住し、かつ

歴史の表舞台に組み込まれているのがこれでわかる。

南匈奴は「漢化」した。

 

 

後漢は力を失い、曹操が実権を握った。

南匈奴は後漢の内乱の中、力を失った。

 

異民族との争いは100年以上なかったが、

鮮卑の英雄檀石槐(たんせきかい)が長城以北で勃興した。

 

中華文明は、自分たちの文明の枠を越えられないため

長城以北は支配できない。

そして、現代まで支配しきれなかったのだ。