歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬懿=前漢宣帝=後漢光武帝=袁紹③

実は名族の系譜において、

司馬懿の前は袁紹なのである。

 

袁紹が200年に官渡の戦いで曹操に敗れて以来の

名族政権が249年正始政変(高平陵の変)で実現したのだ。

 

実に50年ぶりに名族が力を握った。

 

袁紹はどのような人か。

袁紹はとかく「三国志演義」などで描かれるのは

悪いイメージが強い。しかし、

ここはゼロベースで袁紹の立ち位置を考え直していただきたい。

まず、

袁紹は汝南袁氏と呼ばれる名族の出身である。

よく言われるが、四世三公を輩出した名門である。

元々春秋時代の陳国の公族が由来。

つまり、夏王朝の末裔である。

王莽の魏郡王氏と同様である。

魏郡王氏は、田斉王家の末裔である。

田斉王家は、陳の公族の田氏が斉に亡命したのが由来。

 

中華・中原の始祖として、

今我々が捉える以上に夏王朝は崇拝されていたのであろう。

 

汝南袁氏は、

袁安(?ー92年)がその祖である。

袁紹から見ると、

四代前の当主だ。袁術から見ても同様である。

袁安は、清流派官僚の代表格。

竇太后(後漢三代皇帝章帝の皇后)ら外戚の専横を批判した。

元々無官だったが、孝廉として推挙され、

数々の清廉潔白なエピソードがある。

 

同じく後漢の名族、

弘農楊氏の楊震(54年ー124年)

と時代は少し重なる。

 

袁安に始まり、四世代に渡って、三公(司徒・司空・太尉)

になる人物を輩出した。

 

時代は下り、

袁紹が現れるのは、

後漢末霊帝の時代である。

 

袁紹には、

天下を掌握するチャンスが三回遭った。

しかしその全てを棒に振る。

①宦官撲滅

②反董卓連合軍結成

③冀州掌握

 

ここに至るまで、

清流濁流の争いがあった。

清流の儒教に基づいた官僚と、

外戚などの台頭を抑止しようとして皇帝に引き立てられた

宦官との争いだ。

 

袁紹は、

時の皇后の兄、

外戚何進と手を結び、宦官の排除を目指した。

ここで、実は濁流と言われる宦官の対立軸として、

袁紹は登場する。

曹操のライバルの一人としての描き方が中心になる

三国志演義では見えにくい一面だ。

 

清流派の代表として、袁紹は登場するのである。

 

宦官撲滅の謀議は、宦官側、このとき力を持っていた宦官たちを

十人の中常侍=十常侍と呼ぶが、彼らに漏れ、

何進は殺害される。

これをの機とした、

袁紹は、宮中に兵を率いて侵入、宦官を撲滅する。

 

これは、すなわち世直しなのだ。

長らく後漢王朝は宦官の禍に遭ってきた。

四代皇帝和帝が外戚の竇氏を排除するのに、

宦官を使ってから霊帝まで断続的に宦官の専横に悩まされてきた。

 

外戚から力を取り戻したい皇帝の手足となって動いた宦官。

皇帝が権力を取り戻した時には必ず宦官も権限を握った。

しかしながら、宦官は儒家としての教育も受けておらず、

行政もわからない。

王朝の運営はままならず、

清流派官僚・士大夫たちからの非難の的となっていた。

 

その長らくの王朝の癌を、

清流派官僚で、四世三公を輩出した、代表的名族の袁紹が、

先頭を切ってかんがんを撲滅したのである。

 

世の清流派官僚やそれを輩出する後の名族たちとしては、

まさに理想的な終着点だ。

 

しかし、その後処理に袁紹は手間取った。

宦官を全滅させた清流派官僚で名族の袁紹は、

その混乱に乗じた董卓に実権を奪われた。

関中方面から多数の兵を率いて洛陽に入った。

 

董卓も出自は怪しい。

隴右の出身では、羌族と慣れ親しんだとあるが、

羌の血が入っている可能性もある。

 

いずれにしろ、どこの馬の骨ともわからぬ、

董卓に権限を握られ、皇帝少帝を確保されてしまった。

 

当然ながら、

袁紹と董卓は激しく対立する。

結果として、袁紹は冀州は南皮(渤海郡)に逃げる。

 

ここからは三国志の世界だが、

袁紹を盟主として、反董卓連合軍が出来上がる。

 

結局、連合軍はうまく機能しないまま解散に終わる。

勇敢にも董卓と戦った、曹操と孫堅が名声を挙げた。

 

これも本来はやむを得ない。

名族というのは儒家思想を信奉するからこそ名族であり続ける。

儒家思想というのは、

文を尊び、武を卑しむ。

 

だから、戦い下手であってこその名族なのだ。

 

ここで、勇敢に戦ったのは、

宦官の義理の孫である曹操と、

任侠から這い上がってきた孫堅だけである。

いわば、名族から卑しいと差別されるからこそ武力をうまく用いることができるわけだ。

 

それでも反董卓連合軍が解散した後も、

袁紹は他勢力に比べて強い勢力を持ち続けた。

最終的には冀州・幽州を確保する。

これは光武帝の事績と似通っており、古例に詳しい者であれば、

非常に期待させる情勢であったはずだ。

 

荀彧すらも袁紹の元に身を寄せているのだ。

荀彧は潁川荀氏と呼ばれる名族である。

戦国時代の思想家・荀子を祖としている。

 

しかし、ここでも袁紹は多数の名族たちの期待を裏切った。

 

李傕達の騒乱から命からがら長安を脱出し何とか逃れてきた

後漢献帝を迎えに行かなかったのだ。

 

結局迎えに行ったのは宦官の義理の孫曹操。

名族の失望は計り知れない。

 

理由はどうやら、袁紹自身が皇帝になりたかったからのようだ。

献帝を奉じて、最終的には禅譲を狙えば良いのではというのは

後世の歴史を知っているからこその発想だ。

このとき、実際の事例では禅譲は王莽のみでとかく評判が悪かった。

直近の良例は、後漢光武帝が瑞兆と予言書を根拠に皇帝に即位したという

話のみだ。

 

名族は儒家思想の理想像、周公旦を求める。

輔弼を求めるのである。

 

建安七子の一人、

王粲は、曹操を讃える詩を作っているが、

その内容は、

「我主人よ、周公旦のように漢王室を輔弼してください」

というものだ。

 

禅譲などというのは、王莽のような悪人が行うものだという考え方だ。

 

袁紹は、献帝の逃避行を助けず、自らの野心を明らかにしてしまった。

名族の信望を失ったわけである。

 

こうして名族の期待を3回も裏切った、袁紹は

ご存知の通り、200年の官渡の戦いで曹操に敗北し、

袁紹自身は202年に死ぬ。

 

この後世に出てくる、曹操・劉備・孫堅はみな、

非名族である。

 

非名族の時代が三国志なのである。

弘農楊氏も、善悪はともかく曹操に一族が処刑されている。

 

曹操の、漢中における故事、鶏肋を見破った楊脩こそ、

弘農楊氏の一人である。

 

軍事が苦手な儒家の徒、名族。

乱世には弱いのが名族だが、

その中で文武両道の英傑が現れる。

 

それが、河内司馬氏の司馬懿であり、

瑯琊諸葛氏の諸葛亮であろう。

 

一つ年上の司馬懿が寿命も含めて、

諸葛亮に競り勝つ。

濁流、のちに寒門とも言われる、一派に入る、

魏の皇帝を司馬懿は掌握し、

後漢の名族達が希望した、名族の時代が始まる。

 

袁紹が三度のチャンスを逃して勝ち得なかった

名族の時代の到来を司馬懿が実現するのである。