歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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本能寺の変の原因は、安土城の「天主」である。

     

    明智憲三郎氏の説も理解ができる。

     

    本能寺の変における黒幕は細川藤孝で、

    明智をけしかけた。

    明智は、明智を含めた美濃土岐一族の将来を考えて、

    本能寺に織田信長を弑逆する。

    元々これは、織田信長が明智光秀を使って

    徳川家康を誅殺しようとしたものを逆手に取ったものだった。

    明智光秀は徳川家康にこの謀略をリークし、恩を売っている。

    一方、細川藤孝の謀略はこれで終わらない。

    細川藤孝は、明智光秀の栄達を妬んでおり、

    この謀略を羽柴秀吉にリークした。

    それで、羽柴秀吉の中国大返しが成功し、山崎の戦いにて

    明智光秀は敗れ敗死する。

    こういったストーリーだ。

     

     

    一方、副島隆彦氏は、

    明智憲三郎氏の説に大筋立ちながら肝心なところが間違っていると

    主張する。

     

    織田信長を襲撃したのは、

    明智光秀ではなく、イエズス会だ。

    イエズス会は、本能寺の隣にあった、セミナリオの上部階から、

    相当な火力のある大砲で弾を打ち込み、

    更に本能寺に元々仕掛けておいた火薬で織田信長を焼き殺したとする。

    明智光秀が本能寺に到着した時点では、

    既に事が済んでおり、織田信長は既に死んでいた。

     

    得心のいく説明で非常に勉強させられる。

     

    しかし下記二点についてもう少し説明が欲しい。

     

    1. 細川藤孝が謀略を行った動機が欲しい。

     

    1. 織田信長がイエズス会に狙われた理由が欲しい。

     

    細川藤孝がこの謀略、すなわち織田信長殺害計画を実行した理由は何か。

    それは、細川藤孝がクリスチャンだからである。

     

    あまり知られていない事実だが、

    まず細川藤孝の正室は、クリスチャンだ。受洗している。

    沼田麝香というが、受洗してマリアとなる。

    有名な事実だが、嫡男細川忠興の正室で明智光秀の娘玉子は

    クリスチャンである。ガラシャという。

     

    そして細川藤孝・忠興親子は、それぞれの正室しか妻がいない。

    これは当時としては大変珍しいことである。

    なおガラシャの出身明智家は特段クリスチャンの陰はない。

     

    また、彼ら細川家は関ヶ原の戦いの後、突然黒田家と仲が悪くなっている。

    後藤又兵衛の取り合いにもなる。

    それは何故か。

    彼ら両家は、クリスチャンのため、キリスト教を弾圧する豊臣政権・執政石田三成を

    弾劾し滅ぼした。その後、黒田家がキリスト教を棄教し、

    徳川政権に擦り寄ったためである。

     

    黒田はわかりやすく、小田原戦役ぐらいから豊臣政権の中枢から外れている。

    それは1587年の伴天連追放令の後で、その後豊臣政権サイドとして、

    黒田家が出てくることはない。

     

    如水という名前の由来からしても確実であるし、

    葬儀がキリスト教式と仏式で行われたのもわかっているのでこちらも確実である。

     

    細川は宗教的帰趨をはっきりしなかったので、

    黒田家の後塵を拝した。

    それで領地が隣り合うため仲違いをした。

     

    細川家は当時非常に評判の悪い家であったと言われる。

    裏切りが多いためである。

    私はこれは意外なことだと思ったが、

    そう考えると確かに裏切りが多かった。

     

    しかし、正史から見ると、細川家が特に裏切りが多いという描かれ方はしない。

    ここに何か理由があると考えた。

    足利家、織田家、豊臣家、徳川家。

    当時としては、特段裏切りが多いという印象も実はない。

    当然藤堂高虎の方が主君の数は多い。

     

    にもかかわらず言われる。

    それは何故なのか。

     

    本能寺の変の黒幕というのもあるのだろう。

    多分当時の大名クラス以上の人はこの真相を知っていた。

    そして、その動機がクリスチャンの尖兵としてやったことだからだと思われる。

     

    細川家はその意味においては忠実で、

    キリスト教勢力に忠実に実行したと言えば、全くその通りなのである。

    しかし、関ヶ原の戦いでキリスト教勢力を代表した黒田家が、

    徳川家に擦り寄ったことで、孤立してしまった。

     

    結局徳川家康は、反キリスト教、というより、反イエズス会、反カソリックに

    舵を切る。

     

    そういったこともあり、細川は最終的には肥後という地の果てに追いやられた。

    細川管領家を継ぐ存在で、細川藤孝は将軍義晴と噂された存在にもかかわらずである。

     

     

    さて、織田信長殺害計画に戻る。

    まず、織田信長本能寺滞在時にセミナリオから大砲を打ち込む計画を立てる。

     

    明智憲三郎氏の説は、信長の家康誅殺説の裏を搔いたと説明している。

    しかし、この計画自体の主体者は明智光秀ではない。

    すなわち明智光秀が逡巡したら、この計画は破綻する。

     

    そんな役割を絶対に実行すると言えない人物に任せるわけがない。

     

    なので、私は、何らかの偽書か、信長が閲兵するとかで明智光秀を

    京都に呼び寄せたと考える。

    もしくはそもそもその予定だったと。

     

    繰り返すが、

    明智光秀は主体ではない。つまり逡巡したら、終わりなのである。

    ということは、自動的に京都に来させるのみを意図したことになる。

    それは何故か。

    信長殺害の罪を擦り付けるためである。

    実際にそうなった。

    明智光秀ははめられたわけである。

     

    イエズス会は、セミナリオから大砲をぶっ放し、隣の本能寺に打ち込む。

    火薬に引火させ確実に信長を殺す。

    遺骨が出なかった理由はこのあたりにある。

    全てが終わったころに、明智光秀がやってくる。

    信長が急に殺された。

     

    一方で細川藤孝は、

    羽柴秀吉に従っている黒田官兵衛にこの情報をリークする。

     

    すぐに撤退できるよう、また退却の期日を合わせられるよう、

    水攻めを行い、タイミングを探る。

    毛利との講和を速やかに済ませた秀吉の軍勢は、

    元々退却の準備を整えていたので、

    京都に取って返す。

     

    道中、織田信長を殺したのは明智光秀だと喧伝する。

    当然、筆頭参謀の黒田官兵衛の役割だ。

    輿論をコントロールし、織田家の軍勢を集める。

     

    一方で明智光秀は主殺しの汚名を被せられる。

     

    山崎の戦いで、見事羽柴軍は明智軍を破る。

     

    その後明智光秀は醍醐寺の近くの小栗栖というところで、

    土民に殺されたとされている。

     

    そのような話、他では聞いたこともないのに、

    あの織田信長を「殺した」明智光秀だからこそ、

    すっと心に入ってくる。

    あり得ない死に方であり、惨めな最期だが、主殺しの明智だからあり得る話だと。

     

    私はここで、明智光秀は徳川忍者軍団の助けを得たのではないかと考える。

    副島氏の話だと、徳川家康は忍者出身だが、真偽のほどはともかく、

    徳川家が伊賀忍者にネットワークがあることは否定できない。

     

    何故あるのか、織田家は伊賀攻めをしているし、徳川家からは領国が離れているのに、

    など考えると、副島氏の論説の信憑性はより増してくるが、

    ここは一旦スルーする。

     

    明智光秀は、ここで伊賀者の助けを得て、

    逃亡した。身代わりを立て、死んだことにした。

    これは秀吉もいつかは気づいていたのではないか。

     

    誰が明智光秀なのかは詳細は分からないが、

    いずれにしろ、徳川に明智光秀は行ったことになる。

     

    後に徳川がキリスト教を禁止するのもやむを得ないわけである。

     

    ⓶ではなぜ、キリスト教、イエズス会が織田信長を狙ったのか。

     

    それは、安土城である。

     

    安土城にあった「天主」である。

     

    あれが原因である。

     

    1576年に竣工した安土城。

    安土山に七層の楼閣、「天主」を建てた。

     

    当時キリスト教は、天主教と呼ばれていた。

    キリスト教において、天主は、神のことである。

     

    それを、

    織田信長は、あの建物、すなわち自分だと言い放った。

    これは宗教的冒涜と言っていい。

     

    曖昧にこのあたりの説明をする記述はあるが、

    私はここは言い切るポイントだと思う。

     

    あれは織田信長の、キリスト教に対する冒涜である。

    殺意を抱かせてもやむを得ないことだ。

     

    織田信長が堺を押さえてから友好関係にあったはずの、

    キリスト教勢力と何らかの形で対立関係に陥ったのであろうが、

    これはやり過ぎだ。

     

    これは現代にも通じる感覚である。

     

    6年を経て、本能寺の変に至る。

     

    そして、これを裏付ける話がある。

     

    本能寺の変の後、なぜか安土城が燃やされ、炎上するのだ。

     

    明智の軍勢がやったとか、織田信雄が暗愚のため燃やしてしまったとか、

    何ともしっくりこない話ばかりが伝わる。

     

    明智であれば、

    天下人の後継者の象徴として

    この天下の名城を押さえていた方が、価値はある。

     

    織田信雄であれば、

    兄信忠も本能寺の変で死んでいる今、

    十分に織田家の後継者の可能性がある。

    織田家の象徴、安土城を燃やす必要はない。

    むしろ本当の暗愚であれば、安土城に居座りたいぐらいであろう。

     

    両者とも動機に乏しい。

     

    これは、

    確実にキリスト教勢力が燃やしたのだ。

     

    織田信長が天主と言い放った、キリスト教への冒涜の象徴を

    残しておくことはできない。

    それで早々に火をつけたのである。

     

    キリスト教勢力が、キリスト教を決定的に冒涜した織田信長を

    生かしてはおけないと考えた理由は至極理解できる。

    織田信長らしいと言えばそれまでだが、

    これが信長の命取りになった。