歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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①石勒の中華戦記 305年〜310年 河北転戦

まずは司馬穎麾下公師藩のもとで、

八王の乱を戦った異民族の一人が石勒である。

これが始まり。

 

 

石勒こそが漢人中華を滅ぼした張本人。

奴隷から皇帝までのし上がった中華史上唯一の人物。

異民族である。

 

石勒の事績は三つの期間に分かれる

①葛陂の悟りまでとにかく中華を荒しまわる。野獣

②襄国を拠点に華北割拠、華北統一へ。群雄の一人

③華北の覇者として東晋との戦いに臨む。天子

 

石勒は文字が読めない。

情報の流入が我々が想像するよりも少ない。

だから、自分の育った文化が揺るがない。

異民族の流儀でとにかく略奪と殺戮だけを行う。

それが異民族の流儀、弱肉強食の世界だ。

305年から312年までの石勒は

まさに野獣である。

 

これに対し西晋は司馬越以外組織的な

攻撃ができない。

手をこまねいているのみである。

西晋側の漢人がバラバラ攻めかかってくるのみである。

 

 



一見無造作な石勒の動き。

しかし、石勒の戦歴を辿っていくと、

石勒が何故このような行動をしていくのかが

見えてくる。それについて記したい。

 

●●司馬穎の不在が公師藩・汲桑の乱を生み、石勒という英雄を生み出す●●

 

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●310年までは、黄河北岸の河北エリアで転戦する。

 

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305年公師藩挙兵から310年10月匈奴漢第二次洛陽攻撃まで

 

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冀州での石勒の動き 北の幽州に王浚が控える。


石勒の動きは上記の一つ目の地図の赤い矢印の通りである。

 

洛陽から東、黄河北岸のいわゆる河北エリアが中心である。

冀州に進むも、幽州を支配している王浚の力が強く、深く踏み込めない。

 

305年からの5年間、石勒は鄴を中心に、上下左右に転戦する。

 

兗州・鄄城からの援軍が邪魔なので、度々攻撃はする。

目的は陽動、牽制であり、石勒の主戦場は華北であることが

赤い矢印でわかる。

 

細かく下記で辿る。

 

●石勒の305年から310年の動き。

 

・305年

石勒は公師藩に従って挙兵。鄴を攻めるも返り討ちに遭う。

 

・306年

公師藩、白馬から黄河を南に渡河し、逃亡するも、

濮陽太守苟晞(コウキ)の追撃を受け、戦死。

汲桑、石勒は逃げ延び、隠れる。


・307年5月

汲桑・石勒、敗残兵を集めて再度挙兵。鄴攻略成功。

司馬越の弟司馬騰殺害。

鄴掠奪。

延津から渡河、兗州攻撃。苟晞(コウキ)が迎撃。


・307年6月
楽陵 攻撃。幽州刺史石匙殺害。


・307年7月
司馬越 官渡まで進軍。苟晞(コウキ)を支援。
苟晞(コウキ)が汲桑・石勒撃破。
二人は別れて逃亡。


・307年10月 
石勒は劉淵の下に亡命。

劉淵はこの時上党の黎亭に本拠を置いていた。

鄴から西に一山越えればすぐである。

石勒は烏丸を騙し討ちし、自分の兵とする。


・308年1月
劉淵より兵を預けられ、

太行山脈東麓の攻略に向かう。

上党の壺関の攻略。

太行山脈を抜けて、鄴のある魏郡攻撃。


・308年9月
王弥とともに鄴攻撃。見事二度目の鄴奪取に成功。

守将和郁(ワイク)。賈謐二十四友の一人。

 

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・308年10月
鄴城三台攻略。

この後、鄴の北の趙郡を攻撃。


・309年
鉅鹿、常山郡を攻撃。

ここで張賓を手に入れる。

幽州刺史王浚、鮮卑段部を動かして、

石勒を攻撃。

飛龍山の戦い。

石勒敗北。

北への勢力伸張は王浚により妨げられる。

冀州から撤退。

一気に一旦黎陽まで撤退。


黎陽(れいよう)は、黄河北岸。対岸の南岸が白馬。

黎陽が石勒は活動領域の南端と言える。


その後転進し、信都郡(今の冀州市。襄国の北西)攻撃。

王浚が動かした鮮卑が撤退したため空白地となったか。

 

冀州刺史王斌(オウヒン)殺害。

洛陽から車騎将軍王堪の討伐軍出る。

石勒は黎陽まで下がり迎撃態勢。

洛陽から見ると、石勒の活動領域に侵入するためには

黎陽を通過する必要がある。

ここを抑えると、黄河を跨いで対陣できるので、石勒は寡兵でも守りやすい。

 

石勒の備えに恐れたか、

西晋軍は戦わずして撤退。

王堪、倉垣まで撤退。

 

・310年1月

石橋から密かに黄河南岸に渡河、

白馬を急襲。陥落させる。

石勒はこれで黄河の南北の移動の自由を手に入れる。


・310年2月

兗州の鄄城を強襲。

兗州刺史袁孚殺害。刺史殺し三人目。

倉垣攻撃。車騎将軍王堪殺害。

黄河を北へ渡河。

広宗、清河、平原、陽平の各県攻撃。

 

鄴より北東エリアに勢力を固める動きを取る。

 

兗州の守りは固い。

鄴より西に行くと洛陽に近づく。

やはり帝都洛陽の側は危険なのだろう。

 

石勒は鄴を中心に領域を伸ばしていることがわかる。