苻堅のペースが続く、370年から383年。
その間東晋は内部分裂をし始める。
ここに至るまで、
慕容恪および、桓温の盛衰が重要なので、
そこから書く。
●369年桓温第三次北伐失敗から383年淝水の戦いまでの流れ。
この三人が、
357年以降の10年間並び立つ。
●まずは慕容恪
優勢だったのは、
慕容恪。
破竹の勢いで、
幽州から南は淮水線まで進撃。
西は、364年に東晋から洛陽を奪取。
鄴を中心に勢威を誇る。
しかし、慕容恪が367年に死去。
生年不詳だが、多分40代の後半であったと思われる。
慕容恪は事実上の前燕トップだった。
前燕皇帝ではないが、
幼帝慕容暐を輔弼。事実上の最高権力者として、
采配を振るった慕容恪の存在は前燕にとって非常に大きかった。
慕容恪の死により、鮮卑慕容部お家芸の
内部争いが起きる。
収拾がつかない。
そこを満を持して東晋桓温が動く。
●満を持しての桓温出兵
長年の政治課題、土断法を実施しながら、
二度の皇帝崩御、貴族名族を中心とした北伐反対派に足を取られ、
中々動けなかった桓温。
ようやく369年に北伐実行。
しかし、前燕の慕容垂に大敗。
桓温は大いに権威を失う。
前燕は、桓温撃退の功労者が、
執権慕容評と対立。
慕容垂の前秦への亡命という事態にまで至る。
●苻堅、王猛を使って前燕を滅ぼす。
さらに、これ以前から
前燕の洛陽割譲拒否という事態があり、
前秦の苻堅は、前燕侵攻を決意。
宰相王猛
(宰相は通称。厳密には録尚書事。このポジションにいるものが宰相である。)
が出兵し、370年に前燕を滅ぼす。
前秦苻堅は、
これで関中と河北を掌中に収め、
華北の支配者となる。
●苻堅ペースの13年間 370年ー383年
ここから、383年に淝水の戦いで敗れるまでの
13年間が苻堅の時代である。
桓温が東晋内で権威を失墜させたことにより、
東晋内部での内輪もめが始まる。
この内輪もめの推移に応じて、
前秦が領土拡張をする。
東晋内部の政争を絡めて、
前秦の動きを見るとわかりやすい。
368年までに苻堅は前秦内部の争乱を抑え込む。
370年いっぱいで、苻堅は前燕を滅ぼす。
華北の主要領域の確保。
371年4月、武都郡の前仇池を服属させる。
372年、王猛は丞相、都督中外諸軍事、使持節となる。
封爵は清河郡侯であるが、他は曹魏時代の司馬師、司馬昭、司馬炎と同じである。
全権掌握と言っていい。
→一方、不利な形成となった東晋では、
桓温が国内掌握を急ぐために、司馬昱を皇帝にする。
司馬昱は20数年前、宗族のトップとして権力を握った際には、
様々な勢力に配慮して何も決められない人物だった。
桓温が北伐の成功で力を握ってからは、桓温に取り込まれていた。
司馬昱は消極的ではあったものの、結果としては桓温の協力者である。
しかし、簡文帝司馬昱は即位後9か月にして崩御。
またもや幼帝孝帝が立つ。
ここで、謝安を筆頭に貴族名族の巻き返し。
桓温は司馬昱の遺詔により、全権を得るはずだったが、謝安らに食い止められる。
こうして、桓温は身動きが取れないまま、
373年7月に桓温は死去する。
桓温の後継者は4歳の末子桓玄。
後見人として、桓温の右腕で末弟の桓沖がいるものの、
両者とも最高権力者桓温の後継者としては資格に乏しい。
実子は幼すぎ、弟では別家になってしまう。
それに桓沖は、桓温に忠実で優秀な軍人であったが、
政治家ではなかったようだ。
桓温も、政治的な内部調整は苦慮しており、
この家は元々軍人気質寄りだったのではないかと思わる。
故桓温の勢力が、桓温自身の死で衰え、
反桓温の貴族名族勢力がさらに盛り返すこととなる。
このように東晋内が内輪揉めを続ける中、
その隙を前秦が突く。
373年9月、東晋から蜀を奪う。
これが、前秦と東晋の戦いの始まりである。
347年に桓温が成漢を滅ぼして蜀を獲得して以来、
東晋は蜀を26年間保持してきた。
桓温が世に出た最初の功績が成漢討伐であった。
その蜀を桓温が死去した直後に、前秦に奪われたのは、
運命的である。
前秦が桓温の動向を随時マークしていたことの現れではないかと私は考える。
そうでなければ、このタイミングの蜀攻略はない。
桓温が死去したことで、
謝安が力をつけていく。
しかし、桓温の勢力を継いだ桓沖との調整や
事実上の革命であった簡文帝の即位以降の
皇統の安定等でやはり東晋の動きは滞る。
375年6月、丞相王猛死去。50歳。
東晋がゴタゴタする中、チャンスであった前秦。
しかし、そのけん引役の王猛が死去。
異民族の皇帝苻堅を漢人の王猛が支えるというのが、
胡漢融合の最良の体制であった。がそれが崩れる。
王猛の後を継ぐ執政は苻堅の異母弟苻融(末弟)。
376年8月、前涼を滅ぼす。涼州の確保。
これが厳密な意味での華北統一となる。
378年、前秦苻堅、東晋の襄陽を攻撃。
守将は朱序である。
翌379年2月陥落させる。朱序は捕虜となるも、
苻堅は許し登用される。
そのまま、建康から見て長江北岸の広陵まで迫るも、
東晋謝玄が撃退する。
380年前秦宗族の苻洛が遼西の龍城で反乱。
元襄陽の守将朱序が裏切ったことが要因である。
これで前秦軍が大きく動揺し、総崩れとなる。
執政の苻融は乱戦の中、死去。