歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

馳道・直道~異民族・匈奴への道~

紀元前200年白登山の戦い。

これは代(今の大同市)で行われた。

漢民族帝国と異民族帝国の初めての大会戦。

 

劉邦は親征したが、随分とフットワークが軽いなと

感じたのが第一印象だった。

 

長安(今の西安市)から代まで計ってみると

直線距離で745㎞。

 

東京からだと、

東京⇔福岡 891

東京⇔山口 776

東京⇔広島 682

 

長安⇔代は、大体東京⇔山口間だとわかる。

 

しかし、長安⇔代は文字通り山あり谷ありだ。

長安から東に行き、黄河を渡って函谷関を抜け、その後

北に進路を変え、山西省を抜けて代に至るのだと想像した。

 

 

少しは休みたいだろう、

いくら韓信をはじめ英布(黥布)、彭越などを粛清した後とはいえ、

親征するとはすごいなと単純に思った。

 

その背景に気づいたのは、ウィキペディアの秦帝国の地図を見ているときだった。

 秦 紀元前210年 領域図

この秦始皇帝は、馳道(ちどう)というものを作っていた。

これは中国統一後に各地の轍を一つの規格に統一した。

軌を一にするとも言うが、馬車の車輪のサイズを同じにして、

どのエリアも同じ規格の馬車で行けるようにするもの。

 

反乱が起きたときに鎮圧するためなど、色々と言われている。

 馳道 写真

単純に秦始皇帝からすれば自分の国なのだから、

どこでも行ける道を作るのは当然だ。

国防上の理由はもちろんだ。

馳道、名前の通り馳せる道ということで

現代の幹線道路(国道1号線とか)や高速道路だ。

 

この中に地図によって不思議な記載がある。

それは直道。

 秦 馳道・直道図 

秦の首都であった、咸陽からまっすぐ上に伸びている。

途中で曲がって上郡に至り、その後また

まっすぐに上に向かって九原郡に至る。

 

現代の地図で見ると、この道はほぼまっすぐだ。

咸陽、今の西安から、

延安市(日中戦争中の毛沢東ら共産党軍がいた。上郡)、

楡林市(上郡)、

オルドス、

そして九原郡、今のパオトウに至るまでほぼ直線だ。

 直道 写真

この直線を、直道を使うことにより、短時間で行けた。

九原郡は長城至近にある。

秦始皇帝の天下統一の前に、趙との戦いでも使われた。

異民族との戦いでも使われた。

 

ここを高祖劉邦は使った。

九原から、雲中、雁門、そして代に至る。

 

この馳道や直道は現在でも遺構が残っている。