歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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諸葛亮の評価に司馬懿の評価が比例する。

結局のところ、司馬懿の視点から見ると、

表題の通りになる。

諸葛亮(諸葛孔明)の評価が上がれば上がるほど、

それを撃退した、司馬懿の評価が上がることになる。

 

現実的には、手堅い諸葛亮の打ち手に対し、

手堅い現実的な対応を司馬懿がしたという結果になった。

 

第四次北伐では、司馬懿が曹真の死去により、急遽の代役、

岐山を無理をせず守りに徹した。

諸葛亮は、国内の乱れにより撤退。

第五次北伐は、魏明帝曹叡の指示通りに、専守防衛に徹する。

諸葛亮は、自身の陣没により、撤退を余儀なくされる。

 

手堅く緻密にすべき打ち手を打ってくる諸葛亮。

それに対して、官吏出身だからか、

常識的な対応をそつなくこなす司馬懿。

諸葛亮にとっては、武将として奇策を用いてくるような、

曹真や張郃のほうがやりやすかったに違いない。

 

諸葛亮のようなタイプは、

相手が型を崩してきても動じない。

だから奇策を用いてくるような相手に強い。

奇策を用いるということは型が崩れる。

諸葛亮のようなタイプはそこを突くのだ。

 

諸葛亮は守りの方が強いと言える。

攻めかかってきたら、奇策を用いて来たら、

強いのが諸葛亮。

 

だからこそ、諸葛亮にとって、相手が司馬懿なのは運がなかった。

 

司馬懿も、実態はできることを確実に行った、

皇帝・魏明帝曹叡の勅命に厳粛に従った。

だから、司馬懿は型を崩してくることがなかった。

そうなると諸葛亮は打つ手がなかった。

まさに第五次北伐は、型を崩してくるのを待っていた。

五丈原で待っていたのだ。

 

司馬懿は勅命に忠実。またセオリーにも忠実だ。

確かにそれは臣下としては賞賛されるべきことだ。

だが、

後世に語り継がれるほどではなかっただろう。

 

エピソードとしての面白みに欠ける。

 

しかし、諸葛亮はその死後じわじわと評価を高める。

司馬氏の王朝である、東晋簡文帝(司馬昱。司馬懿の玄孫)の時代には、

既に諸葛亮は賞賛されるべき輔弼の忠臣という評価を得ている。

 

謝安起草の簡文帝の遺詔で、

諸葛亮は東晋創業の元勲王導と同列に扱われている。

時の権臣桓温に対して、諸葛亮・王導と同様に、太子を輔弼せよ、

と遺詔している。

 

司馬懿を顕彰するために諸葛亮を高い評価にしたからなのか、

それとも禅譲を狙う桓温に対抗するため、

蜀漢正統論が流行してきたからなのか、

いずれにしても諸葛亮の評価が高まってきた時代だ。

 

その諸葛亮を撃退した司馬懿も評価は当然高まる。

三国志演義のように、マジシャンのような諸葛亮であれば、

それを撃退する司馬懿は、悪の帝王でなければならない。

まさにRPGゲームのような世界だ。

私は、司馬懿と諸葛亮は似た者同士と言い切る。

実直すぎる二人だ。

 

司馬懿が、諸葛亮と異なるのは、輔弼をやりきらなかったという部分だ。

 

司馬懿は諸葛亮を「見事」撃退した。

しかし諸葛亮と違い、皇帝を輔弼しきらなかった。

その点で、司馬懿は歴史上諸葛亮の評価を上回ることができない。

 

司馬懿は、自分の子孫からも諸葛亮より下の評価しかされなかった。

 

そのため二人は脚色の仕方が異なる。

特に三国志演義は、

諸葛亮は、正義、

司馬懿は、悪、

という色の付け方。

 

その実態は、両者同じ立ち位置である。