歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬望③:司馬孚・司馬望父子の、河内司馬氏としての在り方

司馬孚の次男司馬望は、

司馬朗家を継いだ。

 

司馬孚は司馬望を後見する。

 

族長である、

兄司馬懿が死去すると、

司馬懿家も、一族の長老として後見する。

と言っても、司馬師・司馬昭はもう中年期に入っているので、

支援する程度である。

 

司馬懿家は、司馬懿の功績により立ち上がった。

河内司馬氏の中で頭一つ抜けた家となった。

司馬師・司馬昭も壮年を過ぎ、それぞれ朝臣として活躍している。

こうして、司馬懿家が河内司馬氏の頭領家となる。

 

司馬孚は族長ではなく、

一族の長老として司馬懿家を支援することになる。

 

しかしながら司馬望の立場はどうなるのか。

司馬望は、司馬師よりも3歳年上、司馬昭よりも6歳年上だ。

 

司馬望は司馬孚の息子ではあるので、

司馬孚経由で司馬師・司馬昭はアクセスできるが、

尊重しなくてはいけない立場であった可能性は十分に在り得る。

 

司馬望自身、司馬氏の中で少々微妙な立場に置かれている。

司馬師・司馬昭と隔たりがある。

司馬望に当然影響を与えたであろう、司馬孚は魏に忠を尽くしている。

 

この中途半端な立場にある司馬望は、

どうあるべきか。

 

まずは司馬望に影響を与えた司馬孚の事績から、

どう言った影響を司馬望に与えたか考えたい。

 

司馬孚は、司馬八達の三番目で、

長男が司馬朗、次男が司馬懿、その次となる。

司馬孚は生年180年で、実は司馬懿と一つ違いである。

司馬懿は生年179年だ。

司馬孚は、272年に没する。年齢が93歳と非常に高齢まで生きたことがクローズアップされるので、忘れがちなのだが、司馬懿と1歳違いの年子であることは

ピックアップしてよい話だ。

司馬孚は司馬懿が存命の間はあまり目立たない。

司馬孚は、魏のときに新設された、度支尚書というものに就いている。

軍事上の財務を取り扱うもので、司馬懿が諸葛亮の北伐対応の際、

後方から兵站を担った。常に司馬懿を立てて、目立たない役割を

淡々と着実にこなすのが司馬孚だ。

司馬懿の晩年以降、司馬氏の長老として非常に存在感を増してくる。

曹叡からの評価も非常に高かった。

一番初めの官職は、曹植付きであった。

司馬孚は、

曹植にも、曹丕にも諫言をしている。

 

曹植にはその奔放さを諌めている。

曹丕に対しては、曹操の葬儀の際、哭礼が激しすぎることを諌めている。

小人の礼を取るな、と。

 

曹叡からは、実務を賞賛されている。

魏皇帝の中で最も実績主義の曹叡からの賞賛は大きな意味合いを持つ。

文学や礼制、儒家思想だけではないことを示す。

 

曹髦が弑逆された時には、

いち早く遺体に駆け寄り、

「陛下を殺したのは臣の罪であります」と言って、

哭した。

曹髦を庶人に落として、民として葬礼を行おうとしたところ、

反対し、王として葬礼を行わせた。

最後の魏皇帝元帝が、魏晋革命により、

洛陽内の金墉城に移送される際、

元帝の手を取り、「臣は死ぬまで魏の臣下であり続けます」

と言った。

 

司馬孚が魏代々に対して忠義を尽くしたことがわかるエピソードだが、

司馬孚すらも、魏晋革命に必ずしも賛成ではなかったことが

読み取れる。

一族の長老司馬孚すらこの状況である。

司馬氏は一枚岩にはなれない。

 

なお、司馬孚は正始政変においては、

司馬師とともに司馬懿に協力する。

司馬孚は当時尚書令(尚書。尚書省の長官。皇帝の文書を管理。上奏をあずかる)

として、司馬師とともに洛陽の掌握を成功させた。

また252年に諸葛恪の東興の戦いの翌年、

さらに諸葛恪が攻めてきた時には司馬孚が事実上の総大将として、

諸葛恪を迎撃、見事撤退させている。

 

このように司馬孚は文武両道である。

次兄司馬懿に似た手堅い仕事ができる人物である。

 

魏への忠義、兄との協調、文武両道、手堅い仕事、

これが司馬孚の事績から読み取れる、司馬孚像だ。

 

この薫陶を受けた司馬望はどのような人物に育つのだろうか。

 

 

司馬望自身は、

曹髦との交流が深かった。

当時中護軍の職にあった。

 

中護軍は、中領軍の副官。

洛陽の防衛守備隊の総司令官が中領軍。

 

曹髦の呼び出しにすぐに応えられるよう、

早馬をつけてもらったのは有名な話だが、

この後中護軍から地方への転任願いを出す。

 

結果として、都督雍涼州諸軍事となり、長安に赴任する。

正始政変後、夏侯玄から郭淮が務めていたが、

郭淮が255年に死去する。その後陳泰が任じられていた。

その後すぐに姜維が岐山方面を進撃、狄道の戦いが起こるが、

陳泰は見事撃退していた。陳泰は中央に召還され、

代わりに司馬望が長安に赴任した。

 

それはともかく、司馬望は、長安に赴任した。

この辺りが、魏末西晋の人物らしいが、

表面的には曹髦との交流を深めるも、

曹髦との交流があるからこそ、曹髦の意向もわかるのであろう。

逃げるのだ。表面とは裏腹に、利己主義に奔る。

 

司馬昭、というより司馬昭の周辺だが、

禅譲を進めようと画策していることももちろん司馬望は知っている。

 

何か洛陽城内で、武力衝突が起きると、中護軍である自身が対応しなくては

ならない。

 

身内の司馬昭と争うことは避けたい。というより、

儒家思想が衰退するこの魏末西晋の時代、

このような争いに関わりたくないというのが本音であろう。

 

司馬望は長安に出鎮した。

中護軍の後任は賈充である。

賈充が指揮して曹髦を弑逆した。司馬望の予感は的中した。

 

司馬望は関中に出鎮してから、

蜀漢の姜維と戦う。

姜維押され気味だったが、

司馬望が赴任してから父と叔父譲りの手堅い戦いで、

姜維を押し留めた。

 

 

司馬望は、父に似て文武両道で、

博学であり、名声もあったが、時代の流れには逆らわなかった。

 

死後に溢れかえるほどの蓄財がわかり、

輿論は批判をした。

表面的には儒家思想に則った振る舞いをする。

実情は実力主義のこの時代である。

自己を守る為の行為、その一つが蓄財。

 

これこそが、この時代の支配者階級のスタンダードであった。