歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬炎の前までは皇帝は下流の人がなるものだった

司馬炎の前までは

皇帝は名族がなるものではなかった。

 

秦始皇帝=秦王室自体が西戎の出身

劉邦=沛の無頼漢

劉秀=劉邦の子孫。小領主の次男。

曹操=宦官の孫

劉備=筵を織るような貧しい民

孫権=父の孫堅は、無頼漢。

 

むしろ項羽や王莽など、上記皇帝の敵対者の方が名族。

 

項羽は、楚の将軍項燕の孫。代々楚の将軍を輩出した名門。

王莽は、戦国斉の最後の王斉王建の末裔。魏郡王氏。

前漢で最も尊ばれた名族。

 

つまり、司馬炎が265年に皇帝になるまでは、

長らく下克上の世の中であった

中華の人たちから差別される身分の者が皇帝になった。

その手段は全て武力だった。

秦の始皇帝、劉邦、劉秀、曹操、劉備、孫権、

全て大乱の中で武力で勝ち上がった。

成り上がりものなのだ。

 

しかし司馬炎は違う。

司馬炎は一度も親征していない。

280年の呉征伐のときの総大将は賈充であった。

賈充はそもそも呉征伐反対論者であった。

総大将として渋る賈充に対し、

司馬炎は、賈充が行かないのであれば、自身が総大将として

親征しなければいけないと言って、

賈充の重い腰をあげさせている。

 

この時代の感覚として皇帝である司馬炎に

戦陣を踏ませるという感覚がないということを示している。

 

名族は儒家思想を信奉している。

儒家は文を尊ぶ。文を修め天下を治めるという考え方だ。

司馬炎の出身・河内司馬氏は名族の代表。トップである。

それを賈充たち名族が支える。

 

その名族が皇帝である司馬炎に武力行使をさせてはいけないという

思想があった。

 

司馬炎までの王朝を開いた皇帝たちとは

大きな違いだ。

 

匈奴へ親征した劉邦、烏桓討伐に向かった曹操に比べたら、

皇帝という概念が全く変わってしまったかのようだ。

 

王莽以来の名族出身の儒家皇帝司馬炎、

代を繋いだという意味で、儒家的王朝創設はこの西晋が初めてになる。