歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鍾会は「士会」である。 鍾会①

【鍾会の字に秘められた思い~鍾会は士会である】
 
●鍾会は19歳に官途につく。
その際に自身の字を決めたと思われる。

礼記では、20歳で加冠し字を決めるとある。
官途につく、すなわち社会人になるということは、
身内ではない他者との交流をすることであり、
その際に使う字が必要となる。



鍾会は、自身の字を決めた。
鍾会の字は、「士季」である。
 
 
これは、春秋時代の名宰相かつ名将の士会のことだ。
 
晋の士会 字は季
 
鍾会の名は会。
士会の名は会。
 
鍾会の字は士季。
士会の字は季。
 
士会は、 范会・随会・范武子と呼ばれる。
士会は晋の文公の車右を務めた
 
春秋左氏伝いわく、晋の最高の宰相といわれる。
法を取り扱う家で非常に法に厳格であった。
息子は殴られて、厳しく育てられている。
范武子の法を制定した。
法家の元祖である。
晋が輩出した軍事の天才である。
 
名は会で、末子である鍾会は
明らかに士会を意識して、字をつけた。
春秋左氏伝を14歳で読み込んでいる。
知らないわけがない。
 
事情を下記にもう少し詳しく説明したい。 

士会は、末っ子で字は「季」であった。
なので、社会的な名乗りは、「士季」になる。
高祖劉邦も字は季で、この頃は字は一文字が多かったようだ。
 
 
字(あざな)は基本的に自分自身で決める。
賈充の字は、公閭だが、これは父の賈逵が決めた。
これは例外であり、基本的に自分で決める。
 
字は、名に関連して付ける。
名は、親が付ける。名は、諱という。
諱は日本語読みでは「いみな」というが、
呼ぶことを避けるという意味で、
諱を「いみな」と訓じられた。
 
名は、目上の人、君主や親が呼ぶものである。
それ以外の人は、
姓+諱で呼ぶ。
 
諸葛=姓
亮=名
孔明=字
 
である。
君主や親は、諸葛亮、
それ以外の人は、諸葛孔明、
である。諸葛亮孔明とは、呼ばない。
文章中の記載はある。本貫地・姓・名・字の順に
記載して、その人の名乗りを説明する。
 
なお、その人が官職につくと、
姓+官職名で呼ばれることになる。こちらが優先される。
諸葛丞相、曹丞相という感じだ。
日本の習慣である、●●部長と似ている。
 
字の付け方だが、
結論として決まったルールはない。
ただ、何らかの形で、
名に関連した字が多いようだ。
 
諸葛亮・諸葛孔明を例に取ると、
亮は明と同義である。
なお孔は、穴のことで、穴から光が差すことをイメージしていると
思われる。
呂蒙は、字は子明である。
蒙は、「道理が通じない」の意味。蒙昧とかで使われる。
古い名前の付け方で、あえて悪い名前をつけて、
悪いことを追い払う意味合いがあったようだ。
蒙の対義語が明である。
 
趙雲は、字は子龍である。
雲は龍を呼ぶ。
 
龍が描かれている絵には、雲が一緒に書かれているのは
そのためだ。
 
司馬懿は、字が仲達。仲は次男の意味で、
達は、司馬懿の兄弟は全て、●+達なので、
その世代で揃えたのだろう。
一族の結束を感じさせる。
 
孫権は、次男なので、仲がつく。字は仲は謀。
孫策は、字は伯符。伯と孟は、長男の意味。
 
曹操は、字は孟徳。
「荀子」の、「夫是之謂徳操」から来ている。
孟は長男。
 
鍾会は、名が、「会」であり、
父鍾繇か、母張昌蒲が名付けた時点で士会を意識していたのかもしれない。
鍾会自身がさらに字にしているということは、
それを殊更自覚していることは間違いない。
 
 
士会とは何者か。
 
士会とは春秋時代の人物であり、
当然春秋左氏伝や国語に出てくる人物である。
 
士会は、末子で、字は「季」。
なので、士季とも言う。
 
春秋五覇の中で、最も覇者らしい、名君晋文公に仕えた。
文公の車右に指名される。
春秋時代の戦争では、兵車を使う。
この兵車は戦車とも言われるが、現代のイメージとは異なる。
簡単に言うと、馬車である。
四頭の馬に引かせた乗り物で、三人乗る。
この単位を一乗と呼ぶ。
この三人は、車左(しゃさ)・車御(しゃぎょ)・車右(しゃう)
という役割を持つ。
車左は、弓、
車御は、御者、馬を操作する、
車右は、矛や戟で白兵戦を戦う。
 
君主や総司令官は兵車は少し異なり、
総司令官が中央に乗って太鼓を叩く。
戦鼓とも言うが、軍の進退を太鼓を打ち鳴らし指揮する。
その左に、車御、右に車右だ。
 
車右は、君主が白兵戦をするに至った時に、
死を賭して君主を守らなければいけない。
平時にあっては、
全軍指揮のアドバイザーでなければならない。
 
実戦含めて武に通じていなければならないポジションで、
当時の確実な出世コースであった。
 
士会は、晋文公の死後に、
秦に一度亡命する。
趙盾が秦にいた公子雍を君主に迎えるために、士会を遣わしたが、
のちに趙盾が心変わりし、違った公子を即位させた。
これに憤慨した士会は秦に亡命する。
 
その際には秦側の指揮官として、最盛期の晋を散々打ち破った。
 
郤缺
の策略でその後は晋に連れ戻される。
 
前597年の邲の戦いでは、
上軍の将となる。
(晋においては、No.3の地位。
中軍の将・中軍の佐・上軍の将・上軍の佐・下軍の将・下軍の佐とい地位の序列がある。中軍の将=正卿=宰相位となる。このときの中軍の将は荀林父)
この戦いで、晋は楚の荘王に惨敗し、覇権を失った。
 
そうした中、士会の上軍のみが無傷で本国に撤退している。
 
その後、荀林父の後を受けて、
宰相位につく。
 
元々法を取り扱う家で、厳格な家であったが、
士会は法を整え、後世范武子の法と呼ばれる。
士会の家は、祖父士蔿が晋の内戦を終わらせ、
法を整えた功労者であった。
 
祖父の法をもとに、士会は法を整備した。
士会は法家の元祖と言える。
 
士会の家は、
范氏と呼ばれる。范という領地をもらったのでそう呼ばれる。
この范氏は、のちの晋の六卿のひとつである。
六卿は、中行、范、智、趙、魏、韓の6氏である。
 
 
鍾会の父鍾繇は、法の厳格な運用者である。
三国志演義ではあまり目立たないが、鍾繇は魏王朝成立の功労者である。
元勲と言える。
鍾繇は献帝の許昌逃避行を支援した。
そもそも許昌は潁川であり、鍾繇の故郷でもある。
その後、荒れ果てた長安および関中を的確に治め、さらに曹操に
物資の支援もした。前漢の蕭何と同じである。
魏の建国後は、法の整備また運用に貢献している。
士会の祖父士蔿に重なる。
 
鍾会は自身の生い立ち、方向性含めて、
士会になぞらえていた。
それは鍾会に多大な影響を与えた母の意向だったのかもしれない。
いずれにしても、
鍾会自身が士会を意識していたのは間違いない。

軍事の天才で、法の番人である士会になぞらえていたと
考えると、鍾会自身がどうありたかったのかの想像もつく。


武藤和宏著