八王の乱唯一の兄弟喧嘩 司馬乂 対 司馬穎
司馬穎「いけしゃあしゃあと理屈を説いてくる兄司馬乂などと組めるか!」
①司馬朗家(司馬威)
②司馬馗家(司馬越)
③司馬孚家(司馬顒)
④司馬肜
⑤司馬倫
⑥司馬伷家(司馬睿・司馬澹・司馬繇)
⑦司馬駿家(司馬歆)
⑧司馬攸家(司馬冏)司馬師家でもある。
⑨司馬允
⑩司馬乂
⑪司馬穎
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↓
①司馬馗家(司馬越)
②司馬孚家(司馬顒)
③司馬伷家(司馬睿・司馬澹・司馬繇)
④司馬駿家(司馬歆)
⑤司馬乂
⑥司馬穎
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302年12月時点では、この6プレイヤーの争いとなった。
ここで始まるのが、
言い出しっぺの司馬穎と実行者の司馬乂の兄弟喧嘩である。
これは確実に司馬穎の司馬乂に対する劣等感が事の発端である。
年齢:
司馬乂は277年生まれ、
司馬穎は279年生まれである。
司馬乂は司馬穎にとって異母兄に当たる。
302年12月時点で、
武帝司馬炎の男子で存命中なのは、両名と恵帝と司馬晏、司馬熾である。
恵帝を除けば、司馬乂が年長者となる。
恵帝は259年生まれで、皇后楊氏、すなわち正妻の子である。
年齢的にも20歳前後以上離れていて、父と子と言ってもいいぐらいの年齢差である。
正妻の子ということもあって、格の違いも大きい。
恵帝は兄弟の中で別格と考えてよいだろう。
恵帝とそれ以外の弟たちと考えると、
恵帝の弟での年長者は司馬乂である。
司馬乂のすぐ下の弟が司馬穎なのである。
兄弟の順序が次なのである。
2歳しか変わらない。
この微妙な差は大きい。
大して年齢が変わらないのに、兄として尊重しなくてはならないというのは、
仲良くなる可能性も大いにあるが、
近いからこその反発も大いに生まれやすい。
司馬乂と司馬穎の微妙な年齢差は悪い方に振れたと私は考える。
出自の差:
司馬乂と司馬穎には出自の差があった。
司馬乂の母は、審美人、
司馬穎の母は、程才人である。
晋代の制度では、後宮女性の序列は、
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三妃(貴嬪、夫人、貴人)、
九嬪(淑妃、淑媛、淑儀、修華、修容、修儀、婕妤、容華、充華)、
美人、才人、中才人、
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である。
司馬乂の方が母の序列からして格が上なのである。
さらに、司馬乂の母審美人は、楊元后(武帝司馬炎の初めの皇后)と並んで、
三人の息子を産んでいる。
武帝司馬炎の意中はわからないが、それなりには武帝司馬炎から
審美人は寵愛されていたのである。
にもかかわらず、美人止まりということは出自があまりよくなかったが、
美人だったということを示唆している。
一方、司馬穎の母は、才人ということで、武帝司馬炎の皇子の母としては、
かなり下の方の序列なのである。
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毗陵悼王司馬軌(正則)2歳で夭折(母:楊元后)
恵帝司馬衷(正度)(259年 - 306年)(母:楊元后)
秦献王司馬柬(弘度)(262年 - 291年)(母:楊元后)
城陽懐王司馬景(景度)(? - 270年)(母:審美人)
城陽殤王司馬憲(明度)(270年 - 271年)(母:徐才人)
楚隠王司馬瑋(彦度)(271年 - 291年)(母:審美人)
東海沖王司馬祗(敬度)(271年 - 273年)(母:匱才人)
始平哀王司馬裕(濬度)(271年 - 277年)(母:趙才人)
代哀王司馬演(宏度)(? - ?)(母:趙美人)
淮南忠壮王司馬允(欽度)(272年 - 300年)(母:李夫人)
新都懐王司馬該(玄度)(272年 - 283年)(母:厳保林)
清河康王司馬遐(深度)(273年 - 300年)(母:陳美人)
汝陰哀王司馬謨(令度)(276年 - 278年)(母:諸姫)
長沙厲王司馬乂(士度)(277年 - 304年)(母:審美人)
成都王司馬穎(章度)(279年 - 306年)(母:程才人)
呉孝王司馬晏(平度)(281年 - 311年)(母:李夫人)
渤海殤王司馬恢(思度)(283年 - 284年)(母:楊悼后)
懐帝・予章王司馬熾(豊度)(284年 - 313年)(母:王才人)
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司馬穎のひとつの疑問として、何故彼は文盲なのかということがある。
武帝司馬炎には当然経済力があるわけで、
それなりな教育を受けさせることは当然できる。
にもかかわらず、文盲ということは武帝司馬炎に顧みられていなかったことを示唆する。
さらに、母が文字を教えることはできなかった、母の実家もそれができなかったことも
示唆する。
武帝司馬炎の皇子は、270年代に続々と生まれているが、これは、
羊に乗って止まったところの部屋の女性と一夜を過ごすという話の時代である。
多分に司馬穎の母とは、武帝司馬炎のほんの出来心だったということだろう。
顧みられなかったのだ。
皇子の母としての格を持たせるための「才人」であり、
事実は武帝司馬炎に顧みられない、出自の低い女性だったのだろう。
武帝司馬炎の後宮に入ったが、後に恵帝に与えられ、皇太子司馬遹を
産む謝玖は「才人」であった。彼女は屠殺業者の家に生まれていたことから才人であったので、
司馬穎の母の出自も近い階層なのだろう。
司馬乂とは大違いである。
三王の特別扱い:
武帝司馬炎が最晩年の289年に自身の皇子を王に封じている。
それは、
司馬柬
司馬瑋
司馬允
の三名である。
司馬柬は楊元后の子、
司馬瑋は審美人の子、
司馬允は李夫人の子である。
実は武帝司馬炎の皇子を複数産んでいるのは、
上記三人の妃だけなのである。
司馬柬の同母兄が恵帝である。
司馬瑋には夭折した同母兄と、同母弟の司馬乂がいる。
司馬允には眼病を患っている同母弟の司馬晏がいる。
恵帝を守るため、武帝司馬炎家を守るため、という意味合いもあっただろうが、
同じ母を持つそれぞれが一つのユニットとして母を守ってくれという武帝司馬炎の意向も
あったのだろう。
残りは、下記三名である。
清河康王司馬遐(深度)(273年 - 300年)(母:陳美人)
成都王司馬穎(章度)(279年 - 306年)(母:程才人)
懐帝・予章王司馬熾(豊度)(284年 - 313年)(母:王才人)
この中で司馬遐は実は早々に、事実上の養子に出されていた。
武帝司馬炎の同母弟で、三弟司馬兆の家を継いでいた。
司馬攸の弟でもある。
司馬遐は内向的ではあるものの、容姿端麗で武帝司馬炎は寵愛していた。
別に家を建てているわけなので、後の心配をする必要がなかったのである。
ほったらかしにされたのは、
司馬穎と司馬熾である。その共通項は母の出自である。
貴族名族社会の西晋において母の出自の意味するところは大きい。
司馬穎には強い劣等感があった。
司馬乂とは全く異なる。
劣等感のない司馬乂は、劣等感に鈍感だ。
それは余計に司馬穎を刺激した。
儒教的価値観からの評価:
司馬穎は、
出自の卑しさに加えて、なんと文盲である。
司馬倫も文盲なのでインパクトは薄れるが、武帝司馬炎の皇子が文盲とは、
本来の儒教的価値観からすれば、これは忌むべきであろう。
文書で直接命令が下せないのである。
古典に親しんでいないので、共通の価値観を士大夫たちと持ちえないのである。
それは現代の我々が想像する以上に司馬穎は蔑視されたはずだ。
泰平の時代では、世に出て来られなかっただろう。
しかしながら、司馬穎にとって幸運なことに八王の乱という戦乱の世に遭遇した。
彼は栄達する。イレギュラーであることを司馬穎自身も自覚している。
一方、司馬乂は儒教の修養を積んだ者である。
西晋の皇帝は、周や漢のように絶対無比の皇帝で、
理由如何なく、輔弼するものという考えで、司馬乂は動いている。
司馬冏を打倒し、恵帝に実権を戻して、我々弟たちで、
兄帝を支えるべきだと考えている。
司馬穎と司馬乂の考えは全く相容れないのである。
司馬乂は馬鹿正直に司馬穎にともに恵帝を輔弼しようという。
司馬穎は司馬乂周辺の悪臣を処分してからだと言って時間稼ぎをする。
この構図からすると、司馬乂がどれだけ頑迷で、
司馬穎自身のことを全く理解できていないかがわかる。
司馬乂は自分自身の尺度でしか物事を見ていない。
司馬穎は、司馬乂が儒教的建前論を説いてくることに対して、
心底毛嫌いしたであろう。
大体において、司馬乂とともに司馬穎が政権に参加しても、
司馬穎自身に儒教的素養がない時点で、輔弼などできるわけがないのである。
そんなことも理解しない、兄司馬乂を司馬穎は心底憎んだだろう。
そんな司馬乂が兄であることも憎んだであろう。
全く相容れない二人で、ちょっとした兄弟喧嘩どころではないのである。
いけしゃあしゃあと理屈を言ってくる、司馬乂などと政権を輔弼などできるか!である。
感情の面で司馬穎が司馬乂と協調することはまずなかった。
司馬乂はそれに全く気付いていなかった。