歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

304年は西晋に命運を決める年=西晋の終わりと異民族の台頭=

304年は歴史的転換点。

西晋の命運を決める年であった。

 

 

 

 

【西晋皇帝権の失墜】

3047月の蕩陰の戦いは、

皇帝対皇太弟という前代未聞の戦いであった。

 

 

皇帝は皇太弟に捕らわれ、

皇帝の権威は地に落ちた。

 

後世の我々は、

どうしても恵帝が暗愚だから、という見方をしてしまう。

 

しかしそのようなことは当時の人は知り得ない。

実態がどうだったかもわからない。

 

 

暗愚な恵帝ではなく、

この世にたった一人の、全てを握る人間、

それが皇帝という存在である。

 

伝説で権威づけられ、

全知全能に見えるものだ。

 

 

それが世継ぎごときに捕まったのだ。

 

支配者たちは、実態を知っているので、

皇帝であっても所詮人間だと考える。

 

しかし、被支配者たちはそれはわからない。

皇帝にあったこともないのだから。

 

それだけにこのインパクトは大きかった。

 

 

【異民族の自立と勢力伸長 匈奴・烏桓・鮮卑】

3048月に恵帝を捕らえた皇太弟の司馬穎が本拠地鄴を

失い、洛陽から長安に逃亡した時点では、

皇帝という権力は事実上不在である。

 

ここで、軍事力の強い異民族が、

分離をし始める。

 

鄴の司馬穎を攻撃したのは、

王浚と司馬騰は異民族を引き連れていた。

 

王浚は、烏丸と鮮卑段部である。

司馬騰は、鮮卑拓跋部である。鮮卑拓跋部は当然のちに北魏を建国する。

 

鄴陥落に大きく寄与した彼らは、

異民族の流儀通り、鄴を略奪した。

 

彼ら異民族としての存在感を明確にした、

戦いであった。

 

一方、

この王浚、司馬騰らの異民族の混成軍の攻撃の直前に、

司馬穎の元から匈奴が逃げ出している。

 

匈奴の単于の家系に連なる、

劉淵である。

 

劉淵という人質を手元に置くことで、

司馬穎は匈奴の軍事力を使っていた。

 

だが、

言葉巧みに劉淵は、司馬穎の元から逃げ出し、

匈奴の本拠地で、并州の西端に独立した。

匈奴は古の漢の帝室と兄妹の関係だったので、

それを受け継いで漢と称する。

 

さらに、それよりも前に、

蜀の地で、

巴族が独立政権を建てる。

 

こちらも漢の復興を旗印に

漢という国を作る。

 

これだけでも、

西晋のアンチテーゼが、「漢」であるということがわかる。

 

恵帝が皇太弟に捕らわれることをきっかけに、

西晋という正統、伝説は崩壊したのだ。

 

西晋は最早終わりだ。

 

それに対抗する旗印として、

漢の復興というのがスローガンになる。

 

30612月に、

司馬越は八王の乱を終焉させるが、

それも、点と点を繋ぐ支配しかもう成し得なかった。

 

中身は、司馬穎や司馬顒の残党が徘徊し、

チャイナプロパーの境界地域では、

異民族が台頭。

 

この時点で、

西晋は事実上崩壊していた。