歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉淵の独立は二回=王であること、皇帝であることは意味が異なる=

 

 

劉淵の独立は二度。その意味の違い。

 

劉淵の自立は、二回ある。

・一度目は304年。これは言葉通り、自立である。
西晋の皇帝のもと、漢王として自立した行動を取る、という意味合いである。
西晋への反逆ではない。

・二度目は308年。これは自立というより、独立である。
明確に西晋に対して、敵対行動を取る。

 

劉淵、自立の経緯

 

この二度の独立に至るまでの経緯を説明したい。

 

●299年:
299年に劉淵の管轄エリア、部曲が反乱を起こしたことに連座、
免官される。

●300年:

しかし、翌300年に司馬穎が鄴に出鎮、司馬穎は上表して
劉淵を自身の管轄下に置くことに成功する。

平たく言うと、劉淵はこれで司馬穎に抱き込まれる。
この司馬穎の鄴出鎮は、賈后が皇太子司馬遹排斥の一環として行われた。
司馬穎は皇太子司馬遹と境遇が似ていて、皇太子を兄のように慕っていた。

 

 

●●●司馬遹と司馬穎●●●●

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劉淵は司馬穎に連れていかれてから、

司馬穎に従って西晋の八王の乱に遭遇する。

 

●304年:

304年10月 離石にて自立。1度目の自立。
大単于として推戴され、漢王と名乗る。
皇帝ではないところがポイント。

 

304年の劉淵独立が漢王にとどまる、その意味

 

西晋皇帝の支配の下に、漢王という立場は成り立つ。
皇帝であれば成り立たない。

 

●●●●●●中華皇帝とは

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中華において皇帝になるというその意味は、五胡十六国時代に

軍事大国にも関わらず、他国から袋叩きにあったことからわかる。
五胡十六国時代に入ると、前燕という鮮卑慕容部の建てた軍事大国が勃興する。
皇帝になるまでは、東晋の皇帝を認め、その下に王として存在していた。
だが、皇帝になった途端、周囲の東晋を天下の主、実態は盟主だが、
認める勢力から総攻撃を受ける。
前燕は対外政策に失敗し、最終的には亡国に追い込まれる。

 

王にとどまればこの逆になる。西晋皇帝に反逆とまでは言えないということだ。

西晋の漢王ということである。

 

劉淵の自立に反応して、
司馬騰が攻撃をしてくる。
これは劉淵が司馬穎サイドだったから受けた攻撃である。

劉淵は司馬穎・司馬顒勢力とは干戈を交えていない。
漢王として匈奴における自治権は得るものの、西晋王朝の下、
司馬穎・司馬顒勢力に事実上属しているということになる。

これが304年の劉淵独立の真実だ。

劉淵は皇帝号と王号の意味の違いを理解していた。

 

●308年
308年1月から西の河東、東の太行山脈越えを本格化。
308年9月石勒が鄴の奪取。

これで山西高原から太行山脈を東行した中原における拠点を確保。
太行山脈越えの安全なルートを確保したことになる。
この時点で戦国趙の領域に代を除いたエリアを掌握したことになる。
代は鮮卑拓跋部の支配下にある。

 

劉淵、二度目の独立。308年10月皇帝になる。

 

308年10月 皇帝に即位。2度目の自立。

これが一般的には本当の「独立」ということになる。
それまでは単于。
この時代においては、単于は皇帝の下。

漢王は西晋皇帝のもとの王である。
厳密には自立とは言えない。
西晋の中の単于、西晋の属国としての単于と言える。

 

このタイミングでなぜ劉淵は皇帝となったか。

 

 

同年同月に劉宣が死去。劉淵の皇帝即位が先か、劉宣の死去が先か。
これは、劉宣が匈奴の事実上の支配者であったが、
死去したことに伴い、劉淵が実権を後継した。
そのタイミングで、正式に西晋と袂を分かち、
皇帝として完全独立したと私は主張する。

 

西晋の絶対無比の正統皇帝恵帝は306年に死去、
前後して劉淵が属してきた領袖の司馬穎・司馬顒も敗死。
司馬穎麾下の残党、公師藩、汲桑、石勒も307年間までに敗退。
石勒のみ劉淵の元に逃げ込む。

308年時点では、劉淵の匈奴勢力のみが、
司馬穎・司馬顒勢力の残党だった。
劉淵が完全独立を気兼ねしていた西晋は、敵対者・司馬越に完全掌握された。
司馬越は、匈奴・劉淵を散々攻撃してきた司馬騰の兄である。

そのため、劉淵はこのタイミングで皇帝として独立した。
この世の全ては自分のもの、皇帝は自分一人であるということを

意味することになる皇帝即位は、
西晋に対する徹底抗戦を意味する。

 

●309年:


309年1月平陽遷都。
309年3月 黎陽、すなわち官渡を攻撃、奪取。
これで黄河の南岸へのルートを確保。

309年8月洛陽攻撃。劉聡、王弥、劉曜による。
失敗。

 

●310年:
310年8月劉淵崩御。