歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋北伐⑦ 桓温成漢制圧と同時期に司馬昱政権が成立。

桓温は

347年までに成漢の制圧を完了させた。

 

そのまま桓温北伐かと言えば、そうことは単純ではない。

 

 

最後に残党の反乱もあったが鎮圧。

蜀を完全支配において、

桓温は荊州に戻る。

 

桓温は民衆から喝采を浴びる。

鬱屈とした東晋にようやく明るい話題、

功績を挙げたのだ。

 

賞賛しないわけにはいかない。

 

●成漢征伐と北伐の位置付けの違い。

 

桓温はさらに北伐の上奏を行う。

 

成漢攻略は、

兵を進発させた後の事後承認という荒技で乗り切っていた。

 

東晋において、

成漢と境を接しているのは、荊州であり、

荊州の軍権は桓温が握っている。

軍権に関しては全権掌握である。

かつ益州、つまり成漢のある蜀の軍権も

任命されている。

 

これは、成漢の存在自体は、

東晋にとっては非合法であり、

桓温よ益州の軍権を持つべしという意味である。

裏には、益州を回復せよという意味が含まれている。

 

つまり、桓温は益州=蜀に対しての独断専行は許される立場であった。

 

しかし、北伐となるとそうはいかない。

揚州や豫州、徐州、青州は桓温の管轄外である。

 

帝都建康周辺が揚州で、

その北にあるエリアが豫州、徐州、青州だ。

 

このエリアは、桓温が立ち入ることができない。

 

北伐となれば、

347年時点では、

華北を後趙が占拠している。

 

当然、揚州から北と荊州から北の両面作戦となる。

 

桓温が荊州方面を担うのだが、

揚州方面もやってもらわなくては北伐の遂行は難しい。


ということで、
桓温は北伐を上奏するのである。

 


●北伐は桓温の権限では独断できない。

 



しかしながら、

桓温の北伐上奏は決裁されない。

 

このあたりがもどかしいところだ。

庾翼の時には、兄庾冰が最高権力者で、

北伐の遂行ができた。

 

しかしながら、

桓温はここで滞る。

少なくともこの時点の桓温は、

最高権力者でも何でもなかった。

 

荊州と益州の軍権を握る都督であり、

その軍権は強大ではあるが、

朝廷を牛耳るところまでは行っていない。

 

桓温を引き上げた何充は346年に死去しており、

朝廷の絶対的な取りまとめ役がいなくなったのも大きい。

 

東晋皇帝穆帝もまだ5歳である。

 

元来が調和型の西晋・東晋において、

このようなリスクと伴う、ある種のギャンブル性の強い

軍事行動を決めるのは非常に難しい。

 

本来軍事行動というのは、

タイミングが重要なので、

即断即決が肝要なのであるが。

 

ということで、

とりあえずやめておこうということになる。

 


●司馬昱(シバイク)の台頭

 



何充亡き後、

司馬昱が朝廷で力を握り始める。

 

宗族としては、兄司馬晞(シバキ)が

最年長者であるものの、

武を重んじ文を軽んじていたため、

東晋社会では評価されなかった。

 

司馬昱が宗族のトップとして、

朝廷を取り仕切るようになる。

皇帝穆帝は5歳であるので、

皇后の称制はある。実態は、宗族の長、司馬昱が朝廷を差配する。

 

外戚である皇后の父褚ホウは、

控えめな性格で力を握ろうとしなかった。

 

司馬昱が中央政府を握る。

そうしたタイミングで、

揚州刺史に登用されたのが、殷浩である。

 


●清談の士を重んじる西晋・東晋は殷浩を登用。

 

 

殷浩が登用される。

 

346年に褚裒(チョホウ)の推薦を受け、

司馬昱が登用する。

 

この殷浩は桓温の対抗馬として、

登用されたというのが通説だが、

これは結果論、というより状況からの推論でしかない。

 

結果としてそう見えるに過ぎない。

 

結論として、

これは司馬昱の政権作りの一つに過ぎない。

 

ここで褚裒の推薦を受け、

司馬昱が登用をしたのは、

何充が死去し、政権を構成しようとしたからである。

 

褚裒は外戚である。

時の皇帝穆帝の母褚皇太后(褚蒜子(チョサンシ))の父である。

 

外戚ではあるものの、褚裒は非常に控えめな性格で、

宗族の司馬昱を立てた。

司馬昱が事実上の政権首班となる中、

推薦をした人材が殷浩である。

前政権の人材を引き継ぐ部分はあるものの、

やはり自分で任じた者を政権に抱えたいのが本音である。

その方が恩義も感じてもらえる。

その分言うことも聞く。

 

自身の人脈で政権を構成したいところだが、

その数が足りないなどの時は世間の評判などに

頼らざるを得ない。

 

そこで挙がったのが殷浩だった。

 

殷浩はどういう人物であったかと言うと、

老子に長じていた。

叔父が清談の士でその影響を受けていた。

 

若いときに官途に就くよう要請されたが断り、

10年無官のままだった。

 

これは典型的なパターンである。

 

清談の士として、浮世に生き、

哲学談義を行って輿論における名声を高める。

釣り上げるだけ釣り上げて、高く自分を買わせようとする

典型である。

 

魏末から西晋期によくあるパターンである。

いや、実は後漢期から孝廉のフリをする

人物は多々いたので、中華王朝の癖である。

 

魏末の竹林七賢に清談は始まるが、

当初はまだ空虚ではなかった。

魏末の政治情勢を風刺する部分があり、

そのため恨みを買い、司馬昭や鍾会により殺されている。

しかし、

その後に受け継ぐ者たちが空論に奔った。

 

竹林七賢の一人王戎は、

政治家としての評価は低く、

その族弟王衍は空虚な清談の士の典型である。

 

清談の士として名声を得て、太尉まで昇るも、

責任感はなかった。

司馬越が引き連れた10万人の軍勢を、

司馬越の死後官位としてはナンバー2なのに、

引き継ぐこともせず、

そのまま石勒に襲われ壊滅された。

 

石勒に散々罵られたのち、王衍は殺されている。

 

●●●石勒に襲われて事実上の西晋滅亡。

 

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このような時代なのだが、

そうはいっても清談の士は、当代一流の知識人として、

特に高位貴族層に好かれる。

 

司馬昭ですら、竹林七賢の代表格阮籍に頭を下げてまで

登用しようとしたのである。

 

司馬昱も例外ではない。

 

清談に憧れた司馬昱は殷浩を登用する。

 

しかし、何の経験もない人物が、

軍を率いて勝てるほど事態は甘くはない。

 

後年、それを思い知ることになる。