曹叡即位後、荊州戦線指揮官として、
南陽郡宛に出鎮してからの戦歴を下記に記す。
11度の戦歴がある。要所要所、都度重要な事件を挿入する。
①226年 対呉 襄陽攻防戦
②227年ー228年 孟達征討戦
③228年 呉 石亭の戦いにおける荊州戦
④230年 曹真の対蜀征伐 荊州から漢水をさかのぼって漢中方面に攻撃
⑤231年 諸葛孔明第四次北伐 曹真の死去による後任の対蜀方面総司令官
(雍州涼州都督諸軍事)
⑥234年 諸葛孔明 第五次北伐
⑦235年 蜀の馬岱を撃退
⑧238年 遼東の公孫淵を滅ぼす。
(公孫淵は現在の遼陽市付近にあった襄平(遼東郡)を本拠として、
遼河一帯を支配していた。祖父の公孫度のときに事実上の独立国となっていた。遼東郡の北の玄菟郡が現在の瀋陽を中心とした領域を占める。)
1月に遠征開始、8月に公孫淵を滅ぼす。
12月に帰朝。
これにより、公孫淵に朝貢していた、倭国が魏に来朝。
司馬懿の大きな功績となる。
後漢光武帝以来の来朝。
親魏倭王の称号を贈る。
倭は、このときはじめて一文字の国を贈られる。つまり、異民族としての称号ではない。
二文字の国号は、異民族。大抵は、差別的な意味を含む。
この「倭」の朝貢は、岡田英弘氏の説によると、曹真が229年来朝させたインドのクシャーナ朝
対抗する意味合いが強いとのことだ。(当時のクシャーナ朝の王は、ヴァースデーヴァ一世。
親魏大月氏王が贈られる。)
倭国の場所は今のグアムにあるとされる。また、今の日本の国土よりもかなり大きく書かれている。
■239年 魏明帝曹叡の崩御。
一緒に曹丕の遺詔を受けた、曹真・陳羣・曹休はすでにこの世にいない。
曹操時代のように毎年戦争をしていたのに頃に比べれば、
そこまでの軍功でもないだろう。
有名な、夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪・徐晃・張郃など
誰も生き残っていないのだ。
唯一の生き残っているのが満寵だ。
蜀戦線を指揮する司馬懿と対局的に、
満寵は対呉戦線を指揮する。
満寵はキャリアが司馬懿に似ている。
官吏からキャリアをスタートし、
のちに将軍として戦線を統括するというのは司馬懿と同様だ。
また合肥を新城に移し、対呉戦線に鉄壁の守備体制を構築した。
これは、歴史的には非常に大きな意味を持つ。
江南方面から北に向かって攻撃が事実上不可能になったと言い切れるほどだからだ。
しかし満寵には司馬懿と異なり、領土を拡張したという功績がない。
また満寵は司馬懿の下で戦ったことがあり、序列は明確。
また、理由は明確ではないが、
238年に満寵は対呉戦線から離れ、洛陽に帰朝している。
相対的に圧倒的な軍功を持つという司馬懿のポジションが出来上がる。
ちなみに、魏明帝曹叡の崩御後の司馬懿の出兵は
下記三回となる。
⑨241年 芍陂の役(しゃくひのえき。晋書のみの記載)
呉の攻撃。司馬懿が迎撃、撤退させる。
⑩243年 諸葛恪の寿春を伺う出兵に対して、盧江方面まで出兵して迎撃。
なお、この頃(241年前後)
司馬懿は、
鄧艾の進言「済河論」に基づいて、
洛陽から寿春方面の呉に対する備えを整備している。
・淮北における大規模な軍屯の設置
・複数の運河を開鑿
・洛陽から寿春方面まで穀物貯蔵庫を複数並設
これが後年活きる。
農政・軍事に優れた鄧艾を中央に登用したのは司馬懿である。
この後、
■244年 興勢の役で 曹爽 対蜀征討 失敗に終わる。
そして、
■249年 高平陵の変 司馬懿一族が曹爽一族を打倒する。
⑪251年 王淩の乱の鎮圧
その後同年死去。
対蜀 曹真→司馬懿
対呉 曹休→満寵