歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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長江は文化圏を分ける。黄河は幽州を分離=石勒312年江南撤退、襄国本拠設置から辿る=

 

 

 

石勒の邁進にストップをかけた長江。

これは曹操も同じであった。

長江は移動の弊害という天嶮の意味だけではない。

文化圏を分ける存在なのである。

 

●長江は文化圏を分ける。

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 引用元:中国歴史地図集

 

石勒は張賓の建言により、
寿春手前から撤退。

 

これにより、司馬氏の晋王朝が残存することに決定した。

石勒が諦めてくれたおかげで命拾いしたのだ。

瑯琊王司馬睿と王導は、これで猛々しい石勒を撃退した殊勲を得る。
江南に割拠することが可能となった。

 

石勒がここで長江を渡れなかったことは、

この後数百年の歴史を決めた。

589年に隋が南朝陳を滅ぼすまで、

長江の険を擁した南朝政権が300年弱続くのである。

 

隋の文帝が出現するまで、

西晋の280年孫呉討伐のような用意周到な戦略はできなかったわけである。

 

羊祜の荊州善政、それを元に民力充実、

羊祜麾下として蜀にて益州刺史王濬が造船を進める。

木材が豊富にあった蜀は造船に適切な地であった。

羊祜は死すが、杜預が羊祜の遺志を継ぎ、孫呉討伐を成功させる。

 

地上と長江の両面からの攻撃。

 

内輪揉めが続き、さらに孫皓の悪政が続いていたので、

この西晋の攻撃の前にひとたまりもなかった。

 

しかし逆に言えば、ここまでしなければ、

西晋は孫呉を討伐完遂できなかったのである。

羊祜、杜預を擁してもこれである。

 

どれほどまでに長江という存在が大きいかがわかる。

 

そもそも広大な中華において、長江の北と南では文化が違うのだ。

北は船が必要ない。

南は船が必要だ。というより便利だ。

だから造船の技術がある。

 

つまり本来は国が違ってもいいのである。

 

南北で国が違っても良いところを、

中華正統史観がそれを許さなかった。

 

江南を支配しなければ、中華正統王朝になれない。

それで、隋の楊堅は陳を滅ぼすことになる。

 

楊堅は南北の文化の違いの意味をわかっていた。

そもそも風習が違うのだ。

これではまた国が分かれる。

 

それで、大運河を作ることにした。

 

これは隋にとっては、

二つの意味で亡国の原因となってしまった。

 

国力の疲弊と、

隋の煬帝が憧れる江南へ移動しやすくしてしまった。

 

隋の煬帝は対陳討伐の総司令官である。

その後、占領行政を担当し、10年近く江南に滞在した。

 

そこで江南の文化に触れ触発されたのか、

皇帝即位後も大興城(長安)に滞在することは少なく、

江南へ行幸を頻繁にした。

 

さすがに江南と言っても、長江北岸の江都までであり、

長江を渡ることはなかった。

 

非常に危険だからである。

長江を渡った後で、華北に変が起きれば、戻るのに時間がかかる。

また、長江南岸は本来は別の国という価値観があったと私は主張する。

 

そこに行くことは異国になってしまうのだ。

皇帝なので異国という価値観は本来ないのだが、

人間の価値観は厳然としてあるものである。これが本音だ。

 

●石勒は襄国に本拠を定める。理由その1 王浚への対抗


石勒は、
鄴エリアに帰還。
華北の支配を意図し、
襄国を本拠とする。

この理由は、
北方の幽州に割拠する王浚が最大の華北支配の障害だったからだ。

王浚は鮮卑の段部、宇文氏に娘を嫁がせ、
鮮卑をも動かせる権限を持つ。
烏丸も支配下に置いている。
軍事上の大きな脅威だ。

また、当時の渤海の海岸線は、より内陸寄りにあり、
襄国から幽州に抜けるエリアは限られていた。

 

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引用元:山川世界史総合図録

 

幽州自体は、
横に広い平地を擁し、その周囲は山岳地帯に囲まれ、
割拠するのにうってつけであった。

 

幽州からも中原へ進出するには、
石勒の襄国を通るほかなく、
石勒の意図は明らかに対王浚であった。

 

他の中原エリアは、
散々石勒が暴れまわったおかげで、
残党レベルのものしかいない。

并州平陽を都とする匈奴漢劉聡、
長安に寄っていた西晋愍帝司馬鄴、

というそれぞれの胡漢の旗頭のもと、

胡は石勒が、
漢こと西晋は、幽州王浚、揚州司馬睿、荊州陶侃が
それぞれ勢力を保っていた。

 

●石勒は襄国に本拠を定める。理由その2 石勒の強みを最も活かせる土地

 

石勒勢力は、

自身を筆頭とした異民族と、

張賓を筆頭にした君子営を中心に漢人の融合政権であった。

石勒自身は土地にこだわりがない。

 

両者の強みを活かす土地はどこか。

 

それは鄴エリアであった。

 

趙武霊王に始まり、曹操がその鄴の成功モデルを確立した、

この覇道の土地であった。

 

高い軍事力を備えるに必須の馬の補給。

中原という肥沃な農耕エリアにすぐに進出できる土地。

それはこの鄴エリアであった。

 

張賓の進言もあっただろうが、

石勒自身が江南司馬睿への攻撃が失敗し、水が合う土地というのが

重要だと悟った成果である。

 

匈奴漢本拠の

并州との連絡が取りやすいというのは後付けに過ぎない。

 

胡漢融合を成し遂げつつある石勒にとって最も適切な本拠は鄴エリアにしかなかった。

 

しかし、幽州の王浚を抑えるため、北寄りの

襄国に本拠を置いた。

鄴は族子の猛将石虎に任せた。


石勒は太行山脈東隣の襄国に本拠を置き、
華北の完全制圧を狙う。