歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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王敦の乱は、王導が裏切ったから失敗した。

王敦は、

王敦が軍権、

王導が朝廷をそれぞれ牛耳ることで東晋は確立した。

王敦ー王導体制である。

 

しかし、王敦が擁立した元帝司馬睿が、

言うことを聞かなくなった。王導を排除しようとした。

そこで、王敦は軍事力で東晋朝廷を掌握しようとした。

 

これが世に言う「王敦の乱」である。

 

●第一次王敦の乱 王敦が仕掛ける。

王敦の乱は、

二回ある。

第一次王敦の乱と第二次王敦の乱と名付ける。

 

第一次王敦の乱は、

322年に起きた。

第一次は王敦が仕掛けた。

 

きっかけは、王敦の族弟王導が中央から左遷されたことである。

 

大将軍王敦は荊州武昌から、

長江を一挙に下る。

建康の石頭城を攻撃。

司馬睿の陣営で石頭城を守っていた

周礼が裏切って王敦に付く。

 

周礼は、314年の周勰の乱の時に、

周勰に担ぎ上げられて反乱を起こすはずが、

一族を裏切った人物だ。

 

これも王導の功績の一つとされているが、

この王敦の乱でのこの離反を見ても、

王敦と通じていることがわかる。

王敦が周礼を調略したのだ。

 

これで建康の前衛、石頭城を突破、

王敦は建康を占拠する。

 

司馬睿は王敦に平謝り。それで、王敦は矛を収める。

元帝は王敦に、

「直ちに兵をやめよ。朕は瑯琊の地に帰らん」と勅使を使って伝える。

 

これは

漢文の読み下し文だが、

日本語ネイティブの我々には、

これでは元帝司馬睿の気持ちが伝わり切らない。

日本語で言うとすなわち、

元帝司馬睿は、
「早く戦いをやめてくれ、私は故郷の瑯琊に帰るから」と言ったのである。

命乞いである。

皇帝が臣下に命乞いをしたらその王朝は終わりだ。

司馬睿は状況を憂いたまま322年11月に死去。

皇帝が臣下に命乞いをしたのだ。

それは憂いを発して当然である。

王敦は乱を成功させて、

丞相につく。

文武の全権を押さえた。

これですわ禅譲かとよく言われるが、

武昌郡公で、まだ王ではなかった。

また九錫の得点はまだ得ていない。

これだけで禅譲を匂わせるのは、

王敦を意図的に貶めている文章である。

 

●王敦は大将軍兼丞相、王導も司空から司徒へ昇進。

 

さて、

元帝司馬睿の後を継いだのは明帝である。

明帝自身は勇ましく、

早くも323年から王敦打倒を目指して動いていたとされる。

 

それが324年の王敦排除につながるとするが、

そうことは簡単ではない。

後年、桓温の軍権で東晋は長らく権力を握られていた。

軍権がある人間を排除するのは非常に難しいのである。


どれだけ、計画しようが、頑張ろうが、

荊州の軍権を握っている王敦を

排除するのは簡単ではない。

明帝のストーリーは出来過ぎている話だ。

そんなわかりやすい話はないのである。

 

とにかくこの時期は、

王敦が全権を握っている。

この時、王導は司空から司徒に昇進している。

当然明帝の王敦への配慮で、王敦の意向でもある。

王敦の乱のきっかけは、司馬睿による王導排除なのだ。

王敦は王導を中央に置きたいのだ。

王導が王敦に従っていることは明らかである。

 

●王敦病気になる。第二次王敦の乱 明帝派が仕掛ける。

 

こちらは東晋皇帝側が仕掛けたものだ。

 

具体的に動きが起きたのは、

324年に王敦が病を発したからである。

 

王敦は確実に全権を握っていたが、

王敦の一番の弱みは、後継者であった。

子供がいないのである。

 

後継者がいないまま、王敦が病に罹ることで、

政局に動きが出てしまった。

それでも王敦は

温嶠を使って朝廷を監視させたが、

その温嶠が王敦を裏切る。

 

この温嶠は、元々并州の劉琨の属官である。

劉琨が段部に殺害される直前の317年に、

建康の司馬睿の下に派遣される。

そこで司馬睿に皇帝即位を提案した。

そこから司馬睿に仕えていた。

 

この人物ですら、王敦派であった。

王敦がどれほどに力を持っていたかがわかる。

 

しかし、王敦の病と後継者が存在しないことは

非常に大きかった。

温嶠は王敦を裏切る。

明帝に対して王敦を告発するのだ。

さらに王敦は病で今は動けないからチャンスだと。

それを受けて明帝は詔勅で、王敦の弾劾と討伐を命令。

温嶠の裏切りを知った王敦は兵を挙げる。

しかし王敦は病に伏しているので、

兄の王含に建康を攻め込ませたが、敗退する。

これを知った王敦は自分で軍勢を率いようとするが、

病重くそのまま世を去る。

これにより王敦の排除は、王敦の病死という形で成った。


●王敦が潰されても、王導はまた昇進する。

 

そうして、明帝が王敦の排除を遂行した324年、
王導は司徒に太保を追加された。

さらに、

剣履上殿(剣を帯びて宮殿に上がってよい)、

入朝不趨(朝廷に入った時小走りに走らなくて良い)、

賛拝不名(皇帝に謁見する時、名を呼ばれるところを官名をつけて呼ばれる)、

の特権を与えられた。

 

直近で事例を挙げると、

梁冀、董卓、曹操、曹真、曹爽、司馬懿などが

同様の特典を受けている。

権臣に与えるというより、著しい功績のあった人物が

受けるものである。

 

 

324年に王導は何か著しく高い功績を挙げたのだろう。

それは何か。

この年の大事件は王敦の乱しかない。

 

王敦が再度乱を成すも、

病死するが、

これに関して、明帝に王導が協力した以外にあり得ない。

 

王敦のネックは、後継者だった。

それを王導が継いでも良かったのである。

しかし、王導はしなかった。

だから、王敦の乱の後、昇進しているのである。

 

王導が王敦を継げば、

王敦の権力はただ王導に移譲されるだけであった。

東晋は王導率いる瑯琊王氏の天下だった。

王導はそうはしなかったのである。

 

王導は王敦を見捨てた。

 

王導は王敦を裏切ったのである。