歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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蘇峻の乱 327年-329年 〜軍閥の台頭は亡国の兆し〜

 

 

327年から329年まで続く、

蘇峻の乱。

 

これは、

軍閥の台頭を抑制することで起こった反乱である。

 

●軍閥の台頭は、王朝を滅ぼすもの。

 

軍閥の台頭というのは、

中華王朝の典型的な末期症状の一つである。

 

・後漢の例

 

例えば、

後漢末の、三国志に描かれる時代。

董卓に始まり、袁紹・曹操の華北争奪戦、

その後の各地の有力者との争いは、

全て後漢献帝が存在している中で

争われた。

みな後漢献帝の権威は認めるも、

各有力者が軍事力を勝手に保持し、

それを持って

権力の奪い合いを目的に戦う。

 

これを皇帝が抑えることができない。

それが後漢末という時代である。

 

見方を変えれば、

これは各地に軍閥が跋扈している状態である。

献帝からすれば、臣下たちが

それぞれ争い続けてしまっていて収拾がつかない、

という状態である。

 

献帝は臣下同士の争いを調停できず無力で、

最終的には曹丕に皇位を奪われる。

 

・西晋の例

 

これは西晋末も同じである。

その事象が八王の乱と呼ばれる。

八王の乱は宗族同士の争いである。

これは宗族同士というのが印象的なので、

こういう言い方になるが、そもそもは

宗族にのみ、強い軍権を与えたから起こった

内乱であった。

 

西晋恵帝という存在の下、

軍事力を背景に権力争いを繰り広げる。

 

途中からは、

帝都洛陽だけの争いではなく、

エリアが広がり、

各地で軍事力を持った宗族同士が争い始める。

それは、宗族というステータスを除けば、

ただの軍閥である。

そして、これを西晋恵帝は制御できない。

正に後漢献帝と同じ状況である。

 

・唐も清も中華民国も同じ。

 

 

この構図は、

今後も、中華の歴史にはよくあるパターンである。

唐後半の、各地の節度使の跋扈。

辺境にいる節度使は、唐皇帝の言うことを聞かず、

強い軍権を背景に欲しいままに振る舞う。

最終的には、節度使の一人、朱全忠が唐を滅ぼす。

 

時代は下って、清の宣統帝(溥儀)が退位した後、

袁世凱が実権を握るが、

各地方はそれぞれの軍人が統治している状況だった。

袁世凱の死後は、

それら軍人が軍閥化。

 

蒋介石が1927年に北伐を達成するまで、

軍閥時代は続く。

 

 

●軍閥を抑制したい外戚庾亮

 

庾亮の家は、法家政治を受け継ぐ家である

法家とはすなわち、

皇帝権強化、中央集権志向である。

 

東晋の成立の経緯から、

事実上の私兵を率いる人物が

生まれるのはやむを得ない。

それぞれ一族や地元の民を率いて、

江南に逃れていたし、それぞれが私的に

軍隊化し、異民族と戦っていた。

 

しかし、

東晋が落ち着いたら、

抑制しないと、国が滅びる。

上記事例のように国が滅びるというのは、

庾亮はわかっていた。

 

王敦の乱も、これも瑯琊王氏と見れば、

また感じ方も異なるが、

瑯琊王氏であることを除けば、

これさえもただの軍閥である。

 

荊州に軍閥が存在してしまい、

皇帝権を圧迫したという事象である。

 

こうした状況の分析の仕方こそが、

皇帝を中心とした中央集権を

目指す、法家の立場である。

 

王敦の乱を鎮圧した後、

こうした将来の火種は

潰しておかなくてはならないと

法家の庾亮は考える。

 

庾亮は法家思想に忠実で、

厳粛に実行しようとしていた。

それが仇となる。

 

●軍閥側蘇峻・祖約らの視点

 

軍閥側の視点からすると、

実際に東晋を守り支えているのは自分たちだとなる。

北伐さえも自力で実行し

成果を挙げていた。

 

にも関わらず、

足を引っ張ったのは、

帝都建康で気ままに過ごしている、

皇帝、宗族、貴族たちだ、という主張である。

 

実際にそういう部分があった。

まず北府軍の祖で、祖約の兄祖逖(ソテキ)は

豫州を回復したにも関わらず、

司馬睿により、

軍権を剥奪させられた。

 

北伐遂行をしたいのに、

足を引っ張られたわけだ。

 

そのきっかけは、司馬睿と王敦の対立である。

 

前線で戦っている祖逖たちからすれば、

皇帝と王敦の対立などどうでもいい。

ただ、

自分たち前線で戦う者たちの

足を引っ張っているようにしか見えない。

 

司馬睿と王敦の対立は

王敦の乱勃発という結論を迎える。

 

第一次では王敦が勝利。

司馬睿は敗北し失意のまま崩御。

 

その後、明帝が立つ。

王敦は権力を握るが、

病に倒れる。

そこを
明帝と外戚の庾亮が

王敦に攻勢を仕掛ける。

 

王敦はその最中病死。

明帝が競り勝つ。

 

このような流れになる。

 

この第二次王敦の乱鎮圧の際に、

蘇峻や祖逖の弟・祖約なども功績を挙げた。

 

やはり、東晋の屋台骨を支えるのは、

前線で戦う我々だと、

蘇峻たちが考えるのは真っ当である。

しかし、

国家統治を考えた時に、庾亮はそう考えなかった。

庾亮は、蘇峻らを排除しようとする。

 

●執政庾亮と軍閥蘇峻の対立。

 

325年に明帝はその後若くして崩御。

成帝が立つ。幼帝である。

外戚の庾亮が権限を握る。

 

326年には、

祖約が

後趙の石聡からの攻撃を寿春に受ける。

援軍要請を建康に送るも応じてもらえず、

独力で祖約は石聡を撤退させる。

当然、この朝廷の措置に祖約は不満に思う。

 

庾亮としては、軍閥化しつつある在地の軍隊を

警戒しているわけである。

 

王敦の乱のような反乱は怖い。

歴史的にも軍閥が存在するのは王朝存続のためには怖いのである。

 

・蘇峻の怒り。

 

庾亮はいよいよ行動に移す。

327年10月、

庾亮は、

蘇峻の軍権を取り上げるために、

九卿の大司農に任じようとする。

 

そのかわり九卿を餌に、

軍権は剥奪ということになる。

蘇峻としては、

これは祖逖と同じ構図。

前線で頑張っている我々がまたもや軍権を剥奪されかけている。

 

祖逖だけではない。

東晋成立以前から江南を掌握するために、

周訪や陶侃らは良いように使われて、

その後冷遇されたり、

左遷された。

これは同じパターンだ。看過できない。

蘇峻としては憤りを感じることになる。

 

・庾亮の正論。

 

庾亮としては、

東晋建国前からの常套手段。

主に王敦が使ってきた手法である。

江南の土着勢力の軍事力をうまく使って、

反乱を鎮圧、その後

冷遇し放置する。

庾亮はこの手法を使った。

狡兎死して走狗烹らる、である。

 

庾亮としては、

法家思想に則り、

真っ当に対処したつもりだった。

それも王敦が実績を挙げていた

東晋の成功パターンだった。

 

しかし

蘇峻は、

もうこのパターンには引っかからなかった。


こうして起きるのが蘇峻の乱である。

 

●蘇峻の乱勃発。

 

 

既に不遇であった祖逖の弟祖約が、

蘇峻に賛同。

蘇峻と祖約は挙兵する。

 

建康に入城。

司馬亮の子、司馬羕(シバヨウ)を太宰にして、

政権のトップに据える。蘇峻たちに担ぎ上げられたわけだ。

 

司馬羕はこの当時、弟司馬宗(シバソウ)の乱に連座して、

免官されていた。

弟の司馬宗が326年に庾亮との対立の結果から、

弾劾され、それに服さず、

兵を挙げたため誅殺されていたためである。

 

司馬羕、司馬宗共に、

東晋元帝司馬睿と江南にやってきた、

東晋建国の元勲であった。

五馬渡江の五人の王のうちの、2人である。

 

 

王敦の乱は、

皇帝と瑯琊王氏の争い。

今度の蘇峻の乱は、

皇帝と宗族の争いとなる。

 

構図としては八王の乱の再来とも言える。

東晋皇帝家は司馬伷家で、

司馬羕、司馬宗らは司馬亮家。

司馬亮は司馬伷の兄であった。

両者とも司馬懿の子で、司馬昭の弟である。

司馬昭ー司馬炎系が絶えた今、

司馬伷家の元帝司馬睿、明帝、成帝が継いでいるが、

本来は司馬亮家の自分たちが皇帝につくべきだと、

考えるわけである。

 

 

 

328年2月に、

蘇峻と祖約は、建康を陥落させ、入城する。

朝政を掌握する。

 

しかし、

328年4月、庾亮が陶侃との不仲を解消。

陶侃が庾亮側についたことで、

逆襲に遭う。

蘇峻は戦死。

弟が後を継ぐ。乱自体は329年2月に鎮圧される。

 

一方、祖約は、乱の最中に後趙からの攻撃を受ける。

撤退したところを、庾亮側の軍に攻撃をされ、

祖約は後趙に亡命する。

石勒は祖約の亡命を好まなかった。

散々、後趙の軍勢に抵抗して、

東晋の中で自滅した後の亡命であったから、

当然といえば当然であった。

石勒は祖約に謁見を許さず、

 

330年に至り、祖約以下一族を誅殺、族滅させた。