歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋初期の内紛。蘇峻の乱が終わる329年までの概略

 

313年豫州まで来ていた。

石勒の撤退により、

司馬睿政権は難を逃れた。

これにより事実上の東晋が成立する。

 

この後、東晋含めた六朝は、

長江という世界的な大河に守られ続ける。

 

長江を越えて、建康にやって来る次の外敵は、

隋の晋王楊広、後の煬帝を待たなくてはならない。

それは589年のことである。

 

東晋についての全体像を俯瞰したい。

 

●東晋、5つの勢力

 

東晋の特徴は、

皇帝宗族、貴族、江南土着勢力、北府軍、西府軍の

5つの勢力により成り立つことである。

 

この5勢力が離合集散し合う、

それが東晋の歴史である。

 

司馬睿を筆頭とした五王が長江以南に渡る。

(五馬渡江という。)

それは司馬越の指示であった。

司馬越の監軍が王導であった。

司馬睿、王導らは、

呉の丞相顧雍の孫顧栄のもと勢力を結集していた

江南勢力とうまく提携。

 

江南における地盤を安定させる。

 

荊州へ目を向けると、

荊州の軍権は陶侃(トウカン)が握っていた。

これが後に西府軍と言われるようになる。


前任の劉弘が306年に死去、

その後司馬越の参軍として

陶侃は荊州を管轄していた。

永嘉の乱の最中、

陶侃は建業の司馬睿の指示に従うようになる。

司馬睿は司馬越派で、既に司馬越はこの世になかった。

 

江南は建康と、陶侃のいる荊州武昌の

ちょうど間にいる

江州(鄱陽湖の辺り。)刺史の華軼が

司馬睿の指示に従わなかったので、

司馬睿の指示の下、

江南方面から王敦が、

荊州方面から陶侃が

討伐している。

 

 

荊州武昌に王敦が入り、荊州を統治。

318年に東晋が成立。司馬睿が皇帝になる。

 

●東晋建国の元勲、王敦の乱

 

王敦がリードして、東晋が成立した。

荊州の事実上の王として王敦が駐留、

江南の東晋政府は王導が王敦の意を受けて主宰した。

 

そのような状況に不安を覚えた司馬睿は、

王導を排除。曹魏皇帝の明帝曹叡のような側近政治を志向する。

王敦が強く反発。

 

322年に王敦の乱が起きる。

王敦の専横を抑え込もうとした

東晋元帝司馬睿が逆に抑え込まれる。

元帝はこのまま鬱屈とした思いを抱えながら322年に崩御。

最高権力者王敦は、司馬睿に元帝という諡(おくりな)を奉った。

曹魏最後の皇帝と同じ諡である。

王敦の怒りは強いものだった。

 

しかし、

後を継いだ明帝が324年に王敦討伐を開始する。

戦いの中王敦は病死。

王敦に子はなく、兄の王含は不甲斐なく破れた。


将来を嘱望された明帝は325年に崩御。

 

●外戚庾亮の専権

 

後を継いだのは幼帝成帝。

外戚庾亮が力を握る。

明帝の皇后で成帝の母庾氏の兄である。

 

庾氏は後漢の清流派士大夫の宝庫、潁川の出身である。


政権を執った庾亮は、

王敦の意を受けた王導のバランス型政治から、

厳粛な法家政治を志向。

 

王導の各勢力の力関係を意識した寝技的なやり方から、
庾亮のストレートな

原理原則主義に変わったということである。

 

全ては中華皇帝たる成帝のものである。

成帝は幼帝なので、庾太后が代行する。

その庾太后を兄である庾亮が補佐する。

 

厳粛だったり、原理原則、というのは、

実態を認めず、皇帝主体のあるべき論で事を判断するということだ。

王敦、王導とはスタンスが真逆だということである。

 

これで蘇峻の乱が起きる。

327年ー329年の3年間に及ぶ。

庾亮が蘇峻から軍権を奪おうとしたことにある。

 

●蘇峻の乱。叩き上げの蘇峻に配慮しない庾亮が悪い。

 

蘇峻は、

八王の乱、永嘉の乱の中、

華北にて自分自身でいわば民兵のような組織を編成、
それで戦い抜き、江南にたどり着いた人物だ。

 

蘇峻は叩き上げの人物である。


庾亮のように、型にはまった、全ては皇帝のもので、

蘇峻が持つ軍権を持たせるも取り上げるも

皇帝の意思だという考え方が通用するわけがない。

自分で戦い、自分で生き抜いて来た、それが蘇峻なのである。

 

●中華皇帝とは

 

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蘇峻の乱はこうして勃発した。

蘇峻の乱は長引き、

王敦の乱に続きまたもや

一時は蘇峻勢が建康入城、

宮城まで侵入してしまう有様だった。

庾太后の安全すら確保できない状況だった。

 

さらに、

石勒の淮南攻撃もあり、

内外の情勢が東晋にとって非常に厳しい状況となる。

 

ここで、
動静が不明な陶侃を何とか口説き落とし、

陶侃が建康に向かう。

私は、陶侃という人物は史実で言われるような王敦から左遷された

人物ではなく、実は王敦と考えが近い人物だったと考えている。

だからこそ、ここで動静が不明だったのではないかと感じる。

 

途中で以前の論功行賞で

不和となっていた

蘇峻の乱を引き起こした当事者の

庾亮が陶侃に謝罪。

漢人の名士庾亮が、武陵蛮で異民族の陶侃に頭を下げるというのは

相当なことである。

 

陶侃の参戦により、

結果として、蘇峻は戦死、

蘇峻の残党も329年には鎮圧される。

 

●329年に東晋内部がようやく沈静化。

 

これにより、307年以来内紛が22年続いて来た

江南の情勢が沈静化する。

 

瑯琊王氏王導が執政となる。

 

外戚庾氏は事実上の最高権力者だが、

蘇峻の乱を起こした責任から一線は退く。

 

祖約、蘇峻勢が淮南を保持していたが、

敗退して淮南の失陥で華北は石勒の後趙との国境線確定。

 

荊州の軍兵が西府軍として陶侃に統括。

 

北方方面軍で

最後に残った郗鑒(チカン)を中心に軍勢を再編成。

北府軍と呼ばれるようになる、

北府軍は長江北岸の広陵と長江南岸の京口に拠点を置く。

京口の西が建康である。

 

なお、王導が丞相に就くのは338年である。
それまでは中書監や録尚書事として事実上の執政であったが、
丞相ではなかった。
魏晋において、丞相は曹操、その後は司馬越であり、
いずれも皇帝権を侵犯している。
そのため忌避されたと思われる。

王導の死は丞相になった翌年の339年である。