歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉輿・劉琨兄弟

⑧石勒の中華戦記 317年〜318年 祖逖・劉琨の南北挟撃、鮮卑段部分裂、劉琨横死

石勒は并州から劉琨を放逐、 襄国、鄴を中心に、冀州、并州、兗州と幽州の一部を掌握した。 石勒は河北の覇者となった。 この後、幽州段部、匈奴漢本国のそれぞれの内紛が、 石勒に利する。 これらをきっかけに石勒は大きく雄飛することになる。 石勒にとっ…

⑦石勒の中華戦記 314年3月幽州攻略〜316年12月并州攻略まで

「 ②襄国を拠点に華北割拠、華北統一へ。群雄の一人」 という時期の続きである。 ●石勒、314年4月の情勢。幽州不安定、青州曹嶷の離反、襄国飢饉。 ●315年白馬津の南岸を押さえて領域の安定を図る。 ●石勒、事実上の河北の覇者となる。 ●劉聡は、太行山脈の…

④石勒の中華戦記 王弥暗殺から孤立、葛陂で八方塞がり。311年10月〜312年

311年6月に洛陽が陥落する直前に 石勒は豫州へと向かう。元の戦線へ戻れということである。 道中、付け狙われていた王弥を 途中、多分許昌周辺で暗殺。これで石勒は孤立する。 ●石勒は王弥を暗殺したから逃げたのだ。 ●石勒孤立する。行く当てない行軍 ●劉琨…

劉淵自立の背景=劉淵の天命論=それに対する司馬越の当て付けが劉琨

●天から選ばれた子という天子伝説に則って、劉淵は自立した。 ●祀る皇帝は下記の三祖五宗 劉淵の自立理由は二点だ。 ①匈奴本国の掌握の為である。 ②匈奴の不満を抑える為である。 ●とはいえ304年に自立した劉淵は3年大して動かない。 ●匈奴だけではなく、こ…

賈謐二十四友 詳細 ㉓劉輿・㉔劉琨兄弟 その4・・・劉琨の幽州逃亡から鮮卑段部に裏切られるまで。

劉琨は并州の大半を失った。 この後、 匈奴の劉聡は、 劉曜を使って洛陽を陥落させ懐帝を捕らえる、 311年のことである。 直前に懐帝が司馬越と手切れとなり、 司馬越が大軍を率いて、洛陽から離れためであった。 洛陽には守るべき軍兵がおらず、一挙に陥落…

賈謐二十四友 詳細 ㉓劉輿・㉔劉琨兄弟 その3・・・劉琨は鮮卑拓跋猗盧と手を結ぶも312年に晋陽を失陥。

ーーーーーーーーー 劉輿は311年に死去。司馬越も同年に死去している。 ここからは、劉琨単独の話となる。 劉琨が司馬越の次弟司馬騰の後任として、 并州刺史となったことは先に述べた。 繰り返しになるが、 并州は、司馬越・司馬騰兄弟にとって兵権の根…

賈謐二十四友 詳細 ㉓劉輿・㉔劉琨兄弟 その2・・・前漢の末裔という価値について

劉輿・劉琨兄弟のそもそもの話に戻りたい。 劉輿・劉琨兄弟は前漢中山靖王劉勝の子孫である。 前漢景帝の子で、武帝の異母兄に当たる。 武帝というのは、前漢というより中国史上大変重要な人物で、 中華文明としてのあるべき姿を確立した人物である。 後世…

賈謐二十四友 詳細 ㉓劉輿・㉔劉琨兄弟 その1・・・司馬越により兄弟は抜擢される。

賈謐二十四友で、 劉輿・劉琨兄弟が最も注目すべき人物だと私は考える。 劉輿は賈謐二十四友の中で事実上の出世頭である。 劉琨は并州という要地を任される。 鮮卑の拓跋部と段部を中原の争いに直接関わらせた当事者である。 さらに匈奴の并州侵略に抗しきれ…