歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

賈充を事実上の人臣最高位に押し上げたのは、司馬昭の後継者問題だ。

賈充を引き上げたのは、

司馬昭の後継者問題だ。

 

司馬昭は司馬攸の正妻に、賈充の娘を迎えている。

そのタイミングは258年5月以降260年5月以前だ。

 

司馬昭の息子に、

司馬攸という人物がいる。

司馬昭は、司馬攸を後継者にしたかった。

 

賈充は司馬攸の婿になっている。

司馬攸の舅が賈充だ。

 

賈充はいつ、司馬攸と姻戚関係になったのだろうか。

 

司馬攸 生年248年-没年283年。

賈充は、生年217年―没年282年。

司馬攸にとっての子で、

賈充にとっての孫にあたる、司馬冏は生年わからず、302年に死去。

司馬師は、生年208年-没年255年。

司馬攸は司馬師の死の前に後継者となっていた。

つまり7歳になる前に、養子に行っていた。

司馬師は司馬攸を幼年のころから育てていたわけだ。

司馬炎は生年236年-没年290年。司馬攸と12歳の差。

 

司馬師の死の時点では、

司馬攸は7歳なので、

賈充は司馬攸の舅にはなっていない。

許嫁でない限りそれはあり得ない。

この時点で名族でもなく、司馬師・司馬昭にとってかけがいのない臣下でもないので、

許嫁をする必要もない。

 

司馬師死去の255年から

司馬昭死去の265年までの間に、

賈充は司馬攸に娘を嫁がせている。

 

賈充は、司馬攸に嫁がせる娘の母である李氏を離縁している。

254年の李豊の変を受けてだ。

その前の生年となる。

当時の一般概念からして、

司馬攸より年上というのは常識的にはあり得ない。

司馬攸に嫁がせる娘は、賈充と李氏との間の長女。そのほかに次女がいる。

 

ということは248年~253年の間の生まれとなる。

 

司馬炎は、自身が司馬昭の後継者になれたことを賈充に感謝している。

司馬炎にとって後継者を争った司馬攸の舅である賈充を後々まで信頼し、

その意向に気を遣っていることから、賈充が司馬攸ではなく、司馬炎を支持しているという確固たる背景がある。

 

その理由は、司馬昭に、後継者を司馬攸にしたいがどうか、という下問に対して、

司馬炎を勧めたためだ。この時点で賈充は司馬攸の舅になっていたと思われる。

司馬昭は、司馬攸の舅賈充が支援してくれなければ、後継者にできないからだ。

長幼の序からして後継者となるのが当然の司馬炎に感謝されるということは、

賈充の支援が必要だったというわけだ。

となると、この司馬昭の下問時には、賈充は舅である。

 

司馬昭は、賈充が司馬炎を勧めてきたことを、直接司馬炎に話している。

 

 

司馬師の死後、

司馬攸は宙に浮いた存在だったと思われる。

司馬師の後を継ぐはずだったのに、司馬師の急死により曖昧になった。

司馬昭は、司馬攸を後継者にしたいのが本音だったので、

切れ者賈充の後援を期待した。

 

つまり司馬昭が、賈充のことを使える人間だと確信した時点だ。

 

賈充の業績は、257年から始まるので、

257年以降に司馬攸の婿になった可能性が高い。

 

司馬攸の年齢が、

9歳(257年)

~16歳(265年)

の間に賈充の娘と結婚したことになる。

 

260年5月の曹髦弑逆の前か後か。

前だと色々な辻褄が合って面白いのだが。

曹髦弑逆で、司馬昭が賈充を処分できなかったのもわかる。

 

司馬昭は263年に晋公・相国・九錫を受けている。

264年には晋王に昇っている。

 

263年の九錫を受ける、=禅譲を将来受けますというのと

ほぼ同義。

王莽の古例から、禅譲の前に九錫を受けるのは、恒例。曹操も受けている。

 

司馬昭は生年211年-没年265年。

九錫を受けた時点で、52歳。

ポジション的にも年齢的にも後継者を決めなくてはならない。

司馬昭が賈充に司馬攸を後継者にしたいという下問をしたのは、

263年の可能性が高い。

 

ということは、

司馬攸が9歳の257年から、

14歳の263年までの間に、

賈充の娘と結婚したことになる。

 

 

司馬昭の後継者意中の本命は司馬攸。

しかし、司馬師の死後宙に浮いていた。

賈充は名族ではないので勢力としての頼りにはならない。

何を頼りにしたか。賈充の知恵と推進力だ。

それ以外にない。勢力や権力は司馬昭が与えたのだから。

 

当時の結婚適齢期としては、

12歳から14歳といったところだろう。

 

しかし、賈充は、相当に大きな問題になった、

曹髦弑逆事件を260年に起こしている。

 

司馬昭がわざわざそのあとすぐに

大切な息子の司馬攸の妻に、その張本人賈充の娘を娶わせるか。

さすがにお人よしの司馬昭とはいえ、それはないだろう。

 

ということは、賈充の曹髦弑逆事件のちょっと前に、

賈充の娘を司馬攸に娶わせたのではないか。

 

諸葛誕の乱で、

台頭した賈充。

諸葛誕攻めでも、賈充は戦法の提案実行などをしている。

司馬昭に労われ、戦後処理の対応を任されている。

 

賈充は諸葛誕の乱で司馬昭からの評価と信頼を得た。

 

司馬昭の長子で、

司馬攸よりも12歳上の司馬炎が当然後継者だという風潮を打破するために、

賈充を頼ったのではないか。

 

だからこそ、曹髦弑逆に関して、

賈充を罰することができなかったのではないか。

 

賈充を弑逆で罰すると、

司馬攸にも影響が及ぶ。

少なくとも、賈充の娘で司馬攸の妻を

離縁しなくてはならない。

そもそも弑逆は三族誅殺である。

 

司馬攸にも何らかの影響が出る。

少なくとも、司馬攸を後継者にしたいという、

司馬昭の内意の実現に影響を与える。

 

それは絶対にしたくない。

 

司馬昭ももちろん暗愚ではない。

曹髦弑逆が賈充の責任になることぐらいわかっていたはずだ。

 

司馬攸を守るために、

賈充を守らなくてはならない。

 

そのためには、賈充を罰するわけにはいかない。

 

人の好い司馬昭だからこそ、

絶対に譲れないものは何があっても譲れない。

 

どうでもいいことには無頓着だが、

譲れない部分には、徹底的にこだわる。

 

普段の人の好い部分しか見えないからこそ、

その違いが判らない。

 

曹髦弑逆に関する賈充の免罪の裏には、

司馬攸という存在があったのだ。