歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬昭にビジョンなどなかった。なし崩し的禅譲への道。

司馬昭は、流れに乗る他なかった。

元々ビジョンがあったとは考えられない。

 

 

司馬懿の怒りは正始政変を引き起こした。

晩年を迎えた司馬懿の最後の一手だったかもしれない。

後を継ぐ司馬師の、後継体制を見据えたうえでの一手だったかもしれない。

 

いずれにしても司馬氏の正当防衛と言える。

 

司馬懿を継いだ司馬師は、

現状を維持するために名族の支持を得ようとする。

 

その結果、宗族らの反発を受けた。

皇帝曹芳の廃替までに至る。

 

しかし、それでも司馬師は、傀儡皇帝を立てようとは考えていなかった。

わざわざ、50歳を超えた皇帝を迎えようとする。

当然意のままにならないことは想定できた。

 

しかし、郭太后の反対で、

やはり若い皇帝にするほかなかった。

 

皇帝の廃替は、司馬氏の与党毌丘倹の乱を引き起こす。

毌丘倹がまともで愚直だからこその反乱だ。

 

司馬師は電撃戦で一命を賭して、毌丘倹の乱を鎮圧した。

 

司馬昭に代替わりする。

 

突如転がり込んだ、司馬氏の家督。

司馬昭は驚いたはずだ。

 

司馬昭は正妻の息子とはいえ、

司馬師の次弟。

司馬昭は、司馬師を補佐するための教育とキャリアしか積んでいなかった。

正始政変は司馬懿と司馬師で企画としたと言われるが、

もしかしたら司馬昭は入っていなかったのかもしれない。

 

父は正当防衛、

兄は現状維持、

までしか想定していない。

 

当然司馬昭はそれに則るしかなかった。

現状維持しかなかった。

 

しかし、司馬昭は、父や兄に比べ鋭さがなく、

不安になる。

自身が権力を受け継いだことをどう思っているのか。

そこで賈充が地方を探ることになった。

 

様子を伺うぐらいの意味だったのが、

賈充が吹っかけたおかげで、諸葛誕が乱を起こすことになった。

 

皇帝曹髦と郭太后を連れての司馬昭の遠征。

数十万の軍を率いての諸葛誕討伐だ。

 

皇太后を連れての遠征など、前代未聞だ。

それだけ焦ったのであろう。

 

諸葛誕との9ヶ月に渡る、泥仕合を

競り勝つ。

 

その三年後には皇帝曹髦が、

急遽司馬昭の誅殺を思い立つ。

 

皇帝自ら司馬昭のもとへ繰り出す。

自身は皇帝なのだから、刃を向けるはずがないという言い分だ。

もちろん皇帝曹髦の世間への皮肉だろう。

 

誰も刃を向けられない中、

賈充が、今こそ恩に報いる時だ、として、

成済に皇帝曹髦を弑逆させる。

 

その後対応を協議したが、陳泰(陳羣の子)のみが出席していないことに

気づく。

陳泰に異議を唱えられることを司馬昭は恐れた。

焦った司馬昭は、陳羣の子陳泰に相談する。

父親は魏の建国の功臣同士だ。

 

陳泰は皇帝弑逆の指示を出した賈充を

腰斬すべし(腰元で身体を斬り、徐々に死に至らしめる酷刑)と

助言されるも、司馬昭はそれができない。

 

結局成済を族滅することでお茶を濁した。

 

司馬氏は、皇帝を一人廃替し、

皇帝を一人弑逆した。

 

梁冀が自身を跋扈将軍だと批判した質帝を毒殺し、

桓帝に替えたのにならんでしまったのだ。

 

こうして、司馬昭はなし崩し的に禅譲への道を辿る。

 

果たして、それは司馬昭にとって望む道だったのか。

 

賈充が時代を先導する、そういう時代に入ったのである。