歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉淵の歴史認識=匈奴漢が祀る三祖五宗とは=

 

劉淵の打ち立てた王朝、匈奴漢の宗廟で祀る皇帝は
下記である。
 

三祖五宗 


祀る皇帝は下記である。
三祖五宗という。


【三祖】
太祖高皇帝劉邦
世祖光武帝劉秀
烈祖昭烈帝劉備
【五宗】
太宗文帝劉恒
世宗武帝劉徹
中宗宣帝劉詢
顕宗明帝劉荘
粛宗章帝劉炟

 

これが劉淵の歴史認識である。 

 
重要なことは、劉備を烈祖として、
劉邦、劉秀という前漢、後漢の祖と並び奉っている部分である。
 
劉備が建てた漢、
蜀漢とか季漢と言われたが、これを、前漢・後漢と同列に扱っているのとほぼ同じである。
 
それを継ぐのが、
この劉淵の匈奴漢という歴史認識である。伝説とも言う。
前漢⇒後漢⇒蜀漢⇒匈奴漢、という歴史認識である。

 

太祖とは、世祖とは、烈祖とは

 
「太祖」は、大元の先祖という意味、
「世祖」は、新たな世の先祖という意味、
「烈祖」は、大きな功績のあった先祖という意味である。

 
なお、劉淵自立の304年において、劉備が追諡された、
烈祖はほかに魏の明帝曹叡がいる。

 
祖父曹操が太祖、
父曹丕が高祖、
曹叡は烈祖である。

 
曹叡は、祖父、父と並ぶという認識から、
このようになった。
確かに、三国鼎立において、魏の優勢を勝ち取ったのは曹叡である。
しかしながら、
事実上の建国者曹操と、
史上初禅譲を成功させた曹丕と、曹叡自身が並びたてるというのは、
曹丕と不仲であったということが影響している。
不仲の父曹丕の下風に立つのを嫌った。
 
曹丕は高祖であるが、
史上初めての「高祖」である。
 
劉邦は高祖と呼ばれるが、
これは慣例表現である。
実際には太祖高皇帝が正式名称である。
 
略して高祖と呼ぶようになり、
曹丕を曹操に近しい諡名として選定された。
 

劉淵は高祖光文帝。この意味。


劉淵は死後、
高祖光文帝と諡号される。
 
諡号の序列で言えば、
太祖の下だが、かなり類する業績を挙げた皇帝が
高祖となる。
 
ということで、
高祖劉淵は、劉邦よりも下だが、
それに近しいということである。
 
諡号が空いていたというのもある。
漢人の知識人が集結して決めたものではないからだ。
ただ、空いているからという理由で、
高祖とした可能性もある。
 
とにもかくにも、
劉淵は
前漢⇒後漢⇒蜀漢⇒匈奴漢、という歴史認識のもと、
匈奴漢を打ち立てたということである。
 
漢は秦を認めておらず、
すなわち皇帝は太祖高皇帝劉邦に始まるという考えに立つ。
なので、劉氏で漢でないと、皇帝にはなれないという、
歴史認識の延長線上に劉淵がいるということを強調したい。
 
そうなると、曹魏や西晋は否定されるのである。
 
漢室劉氏のみ皇帝法則になるからである。